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(画像=時代への対応力の大切さを教えてくれた谷さん)

レシピはあくまで参考書

谷さんはスタッフと一緒に食事することが多い。そのとき、スタッフに「客と同じ立場で、主観で判断してはいけない。今自分が食べている料理を作れるのか? この味が再現できるのか? それを理解した上で、自分の好みかどうかを判断しないと先がないよ」と諭すという。レシピもそのまま再現するのではなく、どうしてこの調理法なのか、この仕上がりが本当にベストかどうかを論理的に考えさせるという。

「私の母は音楽の先生だったので、クラシックが流れている家庭で育ちました。コンサートも観に行きましたが、超絶技巧があればリストやショパンが弾けるのかというわけではありません。作曲家がなぜこの曲を書いたのか考え、自分の気持ちが入り込めるかどうかが大切なのです。それって己の感情であり、理解ですよね。そういうことを馬鹿にするなとスタッフには言っています。例えばレシピに『スープの温度は70度にする』と書いてあったとします。どうしてこの温度なのか? フランス人は熱いものが苦手だからです。これを作ってお皿を運んだとき、風速1メートルの風を浴びれば、1度温度が下がり、お客様が食べるころには69度以下になっています。日本人は確実にぬるいと感じるでしょう。日本人が好む煎茶の抽出温度は最低でも70度です。そういうことを理解し、食べる人にとってベストな状態になっているか? それを常に問いかけています」

究極の料理とは「何も取り去るものがない状態」

これまでさまざまな料理を作り、食べてきた谷さんにとって「究極の料理」とは何だろうか。

「自分の発言や、お客様からいただいた言葉をまとめた語録があるんです。それを見ると『究極とはこれ以上付け足すものがない状態ではなく、これ以上取り去るものがない状態』と書いてあります。例えば野にいるうさぎは究極の状態だと思います。私はそういう美しい料理を作りたい。『インスタ映え』するような、見た目だけきれいな料理は誰でもできます。ただ、我々の扱っている素材は何ですか? 動物であれ植物であれ、元は命ですよね。見栄えの良さだけ考えた料理は、命に対する愚弄とさえ感じます。いざとなれば、自分が生きのびるために動物の命を絶ち、調理することができるのか。常にそういうことをイメージしておかないと、謙虚さがなくなりますね」

谷さんの料理は、素材の味を最大限に生かしたシンプルで力強いものが多い。『ル・マンジュ・トゥー』の定番、「鳩のロースト 赤ワインソース」は、部位別に分けた鳩の肉を、しっかりと血を抱いた状態で焼き上げている。肉を切ったときにしたたる血と、赤ワインのソースが三位一体となり、刻々と変化していく味が楽しめる一皿だ。鳩のおいしさがダイレクトに伝わってくる。

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(画像=『ル・マンジュ・トゥー』の定番料理「鳩のロースト 赤ワインソース」)

料理人として生きるために

谷さんは定休日の日曜日を除いて、店に寝泊まりしている。理由は家に帰るのが面倒だからだという。夜は一人静かに本を読むことが多いそうだ。最近好んで手に取るのは佐藤優さんの本。元財務省の主席分析官で、世界のことに精通しているため面白いという。一見料理と関係なさそうだが、幅広い知識が自分を俯瞰して見ることに役立つそうだ。

「料理はあらゆる要素が取り入れられる仕事です。ただ、料理に落とし込む過程で自分をうまく指導していかなければ、めちゃくちゃになってしまいます。最終的に『これだ』と決めるのは自分のセンス。私の知人が『現場では、センスだけがモノを言う』と言っていたのですが、その通りだと思います。センスは一世一代のもので子どもに受け継ぐことはできません。でも磨くことはできる。だから、若い料理人には『あらゆるものに興味を持ちなさい』と言っています。今はスマホばかり見ている人のなんと多いことか。私は道を歩いているときは緑を見て涼をいただき、建築物や看板を見て『なんでこの色、形なのかな』と考えています。道端で雑草が咲いていたら『こんなところで咲いていて、えらいな、お前』とその生命力を讃えます。先日石垣島に行ったときにはヤギ汁を食べました。店員が野生のヨモギを摘んで、生のままヤギ汁に入れるのを見て、『そういう使い方があるんだ』という発見がありました。一つひとつのことに感動する、みずみずしい心を失ったら、この仕事をやめたほうがいいと思いますよ」

膨大な知識量に裏付けされた論理性、40年以上に及ぶ経験の数々、それらを皿の上で美しく構築するセンスは、『ル・マンジュ・トゥー』の料理を、他の追従を許さないレベルにまで押し上げている。だがそれでも谷さんは、進化するために努力を欠かさない。

「私はもう66歳で、前期高齢者でしょう。料理界でも重鎮になってきて、自分にとって厳しいことを言ってくれる人はどんどんいなくなってきます。だから厳しいことを言ってくれる人を自分で探して、頭を下げて近くにいてもらっているんです。そういう方が店に来ると、『谷さん、今日の料理はどれが主役かわからないじゃないか』『粉を自由に操る職人のことをパティシエという。今日のデザートには粉モノが一つもない』ということを言われます。そうやって指摘してくれる人がいることが本当にありがたいんです。スタッフも同じで、料理をしている一瞬一瞬は、一緒に働く大切な仲間です。だから、この店でまともに働いた人や卒業した人たちとは、一生付き合える友達だと思っています」

話を聞いていると、料理に対してまっすぐな姿勢や熱量に驚かされるが、谷さんは「自分は料理人に向いていない」と何度も口にする。それならなぜ転職しないのか聞いてみると「バカだから料理しかできないんだよ」と笑う。どこまで本気で言っているのかわからない飄々とした口ぶりと、いたずらっこのような目である。そしてこう付け加える。

「レストランは金さえあれば、いつでも誰でもできる。ただし、続けることは本当に難しい」

廃業率が飛びぬけて高い飲食業界で20年以上も一つの店を守り続けてきた谷さん。優先順位の1番は常に仕事。ただし、家族に何かあればすぐさま店を畳む道筋はつけているという。もし明日店をやめることになっても悔いが残らぬよう、周囲の人々を大切にし、日々の仕事でベストを出し尽くす。その積み重ねが、『ル・マンジュ・トゥー』を唯一無二の存在にしているのだと感じた。

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(画像=神楽坂の閑静な住宅街にある『ル・マンジュ・トゥー』)

谷昇(たに・のぼる)
1952年、東京都生まれ。調理師学校在学中から『イル・ド・フランス』で働き、卒業後に就職。1976年、パリへ。さらにフランス国内を隈なくまわった後に帰国し、都内の店でさらなる経験を積む。2度目の渡仏ではアルザス地方へ赴き、縁あって三ツ星店のセクションシェフなどを歴任。帰国後は都内フランス料理店のシェフを経て、1994年に『ル・マンジュ・トゥー』を開く。フランス家庭料理のレシピ集など、著書多数。

『Le Mange-Tout(ル・マンジュ・トゥー)』
住所/東京都新宿区納戸町22
電話番号/03-3268-5911
営業時間/18:30~21:00
定休日/日曜
席数/14

(提供:Foodist Media

執筆者:三原明日香