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米国視察の様子を語る横川氏(画像=Foodist Media)

横川端氏の米国視察「どの店もピカピカに光って見えた」

ペガサスクラブで、渥美氏が最も力を入れていたのが米国の流通業の視察である。戦後、日本の文化や国民生活は大きく変化したが、それは米国からの影響が強かった。政治的・経済的・文化・社会的にも米国の後を日本が追うスタイルが一貫されており、逆から見れば日本の未来の姿が米国にはある。渥美氏が米国視察を勧めたのは「向こうで実物を観ることが全てだと。見れば、自分の考えが変わる。そして、自分がしなきゃならないことが、はっきりと分かってくるから、アメリカを見なさい」(すかいらーくの遺伝子を探る)と語っていたという。

四兄弟は1968年と1969年にそれぞれ視察に出ることになり、端氏は1969年、米国西海岸視察セミナー7日間ツアーに参加した。当時は固定相場制で1ドル360円、チケットは東京-米国西海岸、70名以下の団体運賃で往復500ドル(18万円)であった(昭和43年度運輸白書)。1968年の大卒初任給が3万6000円(厚生労働省・賃金構造基本統計調査)の時代だから、現在なら100万円を超える金額に相当する。すでに経営が苦しくなっていたことぶき食品には厳しい金額で、航空チケットを24回払いで購入しての渡米だった。

1969年はアポロ11号の月面着陸があった年である。米国は政治、経済、文化など様々な面で世界をリードし、光り輝いていた。端氏を含むツアー一行はカリフォルニアをバスで回った。この時の様子を同氏はこのように語っている。

「無我夢中の一週間。マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナツ、デニーズ、ビッグボーイ、サンボズ、マリーカレンダーなど、広いメイン道路に高々と掲げたサインポール。どの店もわれわれにはピカピカ光って見えた」(エッセイで綴るわが不思議人生)。

あれから半世紀近い年月を経た今でも、当時のことを語る端氏の言葉は弾む。「あの時の感動が今日まで続いています。目に焼き付けられた明るいアメリカが、ずっと続いているわけです。当時の日本の外食は暗いお店ばかりでしたが、アメリカはものすごく開放的で人々も明るい表情で食事をしていました。それを見た時に『ああ、すごくいいな』と、心の中にカリフォルニアの明るさとして残るんですね。その感動はいくら話を聞いても経験できるものではありません」。

結局、その時の感動を「食事は明るい場で楽しむもの」という提案として、すかいらーくを通じ実現していくことになる。「1号店(現ガスト国立店)が、まさにそれです。建物は羽根を広げたようで、しかもガラス面を大きく取り、店内を明るくしました。外からは丸見えです。当時では考えられない作りです」。端氏をはじめ、兄弟が実際にアメリカに行かなかったら、すかいらーくは誕生しなかったかもしれないし、誕生したとしても、違った形になっていたであろう。

アドバイスに対して是々非々の姿勢、その柔軟性が成功へと繋がる

結局、4人の兄弟は最初、渥美氏の意見に反発し、その一方で現地を見なさいという言葉に従って米国視察をするなど、個々のアドバイス、指導に是々非々で臨んだ。それは経営の柔軟性とも言えるだろうが、結局、そのことがすかいらーくの成功に繋がった。この点を端氏はこう分析する。

「我がすかいらーくの場合で言いますと、それ(是々非々で臨んだこと)が正解だったと思います。先輩、専門家は知識や経験を蓄えていますから、それをうまく引き出すことが大事ではないでしょうか。渥美先生に限らず、多くの人のお話は我々にとって血となり肉となりました。そういうのは今の時代でも同じです。率直に学ばせてもらう。ただし自分が何をしたいかによって、そのアドバイスをうまく当てはめないといけません。トンチンカンな当てはめ方をすると、それが逆になってしまいます。取り入れるものは取り入れ、取れ入れられないものは取り入れない。それでうまくいかなかったら自分達は運がなかったという割り切りが大事だと思います」。

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四兄弟が外食事業へと舵を切り始めた頃の様子を語る横川氏(画像=Foodist Media)

流れは「コーヒーショップ型のレストランをつくろう」

転業を模索していた四兄弟は、外食産業に目を向け始めていた。これは渥美氏との最初の面談の時に指摘されていたことでもあった。こうした経緯もあり、端氏は米国視察で以下のような印象を語っている。「フードサービスは、まだその頃はスーパーマーケットに比べると、後発でした。流通業の確立したチェーン理論に基づいて、良い所を取り入れて後を追っていく感じにあったわけです。ですから、両方を見ていると、日本もいずれそうなるかもしれないなというような気持ちがありました」(すかいらーくの遺伝子を探る)。

帰国後、兄弟はそれぞれ見てきた米国の印象を語り、どのようなフードサービスを目指すかを話し合った。4人の目指す方向はコーヒーショップ型とファストフード型の2つに分かれたが、議論をする中で「アメリカのコーヒーショップ型で、ちゃんとしたサービスを伴う店舗を郊外につくる、というあたりまでは合意に達することができました」(端氏)という。

ちなみに端氏は米国滞在中にまだ日本に上陸していないマクドナルドでハンバーガーを食している。同行者の中にはまずいと言う者や、講師役の人が「日本に持ってきても売れないと思う」と言うなどツアー内では散々な評価だったが、端氏は「まずいとは思わなかった」(エッセイで綴るわが不思議人生)と語っている。マクドナルドはその2年後の1971年に日本に上陸し、現在の隆盛を迎える。

横川紀夫氏は新規事業の専任、1970年に1号店を決定

こうして四兄弟は外食産業という新規事業に向けて動き始めた。まず担当を紀夫氏とし、ことぶき食品の業務から外し新規事業に専念させる体制を構築。そして大まかな方針と計画を作成したのである。

・1970年に1号店を開く
・5年間に三多摩で30店舗作る
・米国で成功している条件をよく分析して真似る
→住宅地に近く主要道路に面している
 →駐車場をできるだけ多く設ける
 →年中無休、朝から深夜まで営業
 →ベテランの調理師がいなくてもできる料理を開発
 →明るく清潔で、家族連れが気軽に来ていただける店にする
(以上、エッセイで綴るわが不思議人生)

開店に備えて紀夫氏は他の飲食店にアルバイトに入り、レストランのビジネスを学ぶことになった。そして資金の手当てと立地の選定は亮氏が担当、端氏が補佐。竟氏はこれまでのことぶき食品を統括する役割を担うことに決まった。こうして「すかいらーく」1号店に向けて歯車が動き始めた。(提供:Foodist Media

執筆者:松田 隆