茅野亮氏1時間を超える熱弁、農協理事の心を掴む
こうして土地購入については、手持ち資金と亮氏の義父の出資、土地自体への担保権設定によって目途が立った。しかし建物を建てるにはまだ、3000万円ほど足りない。亮氏と端氏は付き合いのある田無農協(現東京みらい農業協同組合)の小林参事に相談。計画書を示し、開店予定地や建物の形態、どのようなタイプのビジネスなのかを事細かに説明した。
もっとも、十分な担保なしに資金を提供してくれと言われても農協としても簡単に首を縦に振れるものではない。しかし、色よい返事がもらえなかった亮氏と端氏も引き下がる訳にはいかない。融資を受けられなければ、傾きかけたことぶき食品と兄弟4人、沈んでいくだけである。断られても二度、三度訪れた。その熱意にほだされたのか、同参事は「理事会が承諾したら融資する」という条件を提示した。農協は一般的に農家の経営者が出資者であり、理事である。彼らは農業従事者で金融の実務に精通していない。「モータリゼーション化が進む米国のように、自動車で訪れるレストランを」と言っても理解を得るのは難しい。そのような人を相手に、1号店の予定地でプレゼンテーションをすることになったのである。端氏は「参事さんは、おそらく理事は断ると思っていたのではないでしょうか」と当時を振り返る。
1970年初頭、府中市と国立市の境にある麦畑。亮氏は田無農協の理事(40〜50歳代)7,8人に1号店の計画書など資料を手渡し、説明を始める。「ここに店をつくって、車をこう止めてもらって食事をしてもらって、その食事はこういうのを作りますと説明しました。農家さんには話は全く分かりませんよね、このあたりで店をやるなんて考えたこともないでしょうから。皆さんポカンとして、ほとんど質問も出ませんでした」(端氏)。
訝しげな顔をする理事の前で、35歳の亮氏が身振り手振りで説明すること1時間から1時間半。黙って帰る理事を見て(とても融資はしてもらえないだろう)と端氏は感じたという。
後日、小林参事から電話が入る。融資決定の知らせだった。まさかの決定だったが、その後、理事会での決定の経緯を聞かされた。「ある理事の方が手を挙げて『あんなに一生懸命言うのだから、ここは貸してあげたらどうですか』と同情で言ってくれたのがきっかけで、他の人も『それしかないな』という感じだったらしいです」(端氏)。
その後、資金の借り増しということで担保が不足し、四兄弟は1人1億円の生命保険に入り、それを追加担保とした。
当時を振り返り端氏は言う。「もし貸してくれなかったら、すかいらーくはどうなっていたでしょうか。他に貸してくれるところはありませんでしたから。結局、死に物狂いでやったことで、道が拓けたと言っていいと思います。そう考えると、ビジネスは緻密な計算の上に成り立つものですが、最後の最後に求められるのは、やる気とか、人としての信用といったウェットな部分で、それに神の助けのようなものがあるかないかで成功するかしないかということが分かれるような気がします。自分が命をかけて、徹底的に目標を追い求めていこうということがない限り、失敗するケースも出てくるのではないかと思います」。
こうして奇跡的に融資を受けることに成功した4人の兄弟であるが、金融機関も最後は「人を見る」のは昭和の昔も今も変わらない。農協の理事が「この男は信用できる」と感じ、人生心意気とばかりに「エイやっ!」と融資する。そんな浪花節的な要素がまだあった時代なのかもしれない。結果として融資金は焦げ付くことなく、すかいらーくは府中市の麦畑から羽ばたいていくのである。
高々としたポールにイン看板、カリフォルニアで見た光景
資金調達の目処をつけると、店舗の建築が始まった。建物はガラスの大きな、夜でも明かりがついて人を呼び込むような明るさを意識した。それにカリフォルニアで見たコーヒーショップのように、高々と立てたポールと、駐車場へ誘導する「イン看板」。日本では見たことのないタイプの建物が府中市と国立市の間に出来上がった。
容れ物が決まっても人がいなければレストランは動かせない。店長は新規事業担当者である四男の横川紀夫氏が務め、ことぶき食品で採用した大卒一期生などの社員を配置し、アルバイトも採用。フロア係はそれほどの専門性は必要ないが、とにかくキビキビ、テキパキ、爽やかなサービス、丁寧な挨拶を心がけましょうということは決めていた。指導スタッフはおらず、自分たちがこうしてほしいと思えるサービスをしようと、オペレーションはイチから作り上げていった。
問題は専門性の高いキッチンである。料理を誰が、どのようにつくるか。当初は紀夫氏がつくったが、商品化できるレベルではない。そこでコンサルタントの小熊辰夫氏に相談すると、プロの料理人を雇うことを提案された。手当たり次第に当たるうちに、町のレストランの腕利きコックといった感じの小高次男氏と巡り合う。チェーン店化したいという要望にも「私ができることはお手伝いしてみましょう」と理解を示し、採用が決まると部下になるコックを3人連れて1号店に入ることになった。
小高氏はイタリアンが専門のため、メニューには米国のコーヒーショップにはないピザが入り、パスタも採用。それ以外にハンバーグステーキを中心としたステーキ類にサラダ、スープなど、今ではファミリーレストランの定番となるものが組まれた。また「日替わり 本日のランチコーヒー付き480円」を道路際のポールに大きく掲げることも決定。料理とライスとコーヒーで500円以内に収まることをアピールすることにしたのである。
スカイラークに決定、創業の地・ひばりが丘団地に由来
店名については様々な意見が出された。ことぶき食品の社員から公募もしたが、採用されたのはコンサルタントの小熊氏発案の「スカイラーク」だった。理由は「ひばりが丘団地で創業した会社だから」。四兄弟も、ひばりは空高く舞い上がるということもあって賛同し決定した。府中市の鳥が「ひばり」であることからスカイラークになったのではということも後にささやかれたりもしたが、俗説である。なお「すかいらーく」と平仮名になるのは2号店からである。
こうして、日本の外食産業を変える「すかいらーく」1号店は、開店予定日の1970年7月7日(火)を迎える。(提供:Foodist Media)
執筆者:松田 隆