考え続けていれば、いいアイディアは必ず見つかる

AI時代の「超」発想法,野口悠紀雄
(画像=THE21オンライン)

偶然をきっかけに歴史的な大発見をしたというエピソードは数多くあるが、発想は偶然によってもたらされるものなのだろうか? これまで圧倒的な量の知的生産を行なってきた野口悠紀雄氏は、決してそうではないと言う。

※本稿は、野口悠紀雄著『AI時代の「超」発想法』(PHPビジネス新書)の一部を再編集したものです。

偶然のきっかけで生じた大発見

科学史を紐解いて誰もが注目するのは、大発見の多くが偶然のきっかけで生じたことです。

その典型例は、アルキメデスの浮力発見です。彼は、湯船に入ったとき、湯船から湯が溢れ出すのを見、同時に自分の身体が軽くなったのを感じて、浮力の原理を発見しました。風呂から飛び出し、裸のまま「ユウレカ!」と叫んでシラクサの街を走り回ったと、歴史に記されてあります。「たまたま風呂に入ったこと」が、発見を導いたというわけです。

偶然が導いた大発見として誰でも知っているのは、アイザック・ニュートンの万有引力です。ペストでケンブリッジ大学が閉鎖されたため、リンカーンシャー・ウールスソープの故郷にいたニュートンは、庭のりんごの木から実が落ちるのを偶然見ました。そして、すべての物体が地球に引かれているという万有引力の法則を発見しました。

ポアンカレは、自分自身の発見経験をいくつか紹介しています。ここでも、重大な発見が、偶然のきっかけで生じています。ある種の関数について研究を進めていたのですが、何の結果も得られませんでした。あるとき旅行に出かけ、雑事にまぎれて数学のことは忘れていたのですが、散歩に出かけるために乗合馬車の階段に足を触れた瞬間に、その準備となることを何も考えていなかったにもかかわらず、「この関数を定義するために用いた変換は非ユークリッド幾何学の変換と全く同じである」という着想がひらめきました。また、別の日には、断崖の上を散歩しているとき、着想が「いつもと同じ簡潔さ、突然さ、直接な確実さをもって」浮かんできたと述べています。

ペンローズも、同様の経験を述べています。ロンドンの横断歩道を渡る際に、同僚との会話が一瞬途絶えたときに着想が浮かんだのです。すぐに忘れてしまったが、夜帰宅してから思い出し、それまで長い間探していた定理の証明ができました。

ドイツの化学者ケクレの発見も似ています。有機化合物の構造式を決定するのに苦労していた彼は、走る馬車の中でうとうとしたとき、6人の小人が手をつないで踊っている夢を見ました。これをヒントに、それまでの直鎖式化合物の常識から離れ、環状構造「ベンゼン環」を着想しました。

以上の例に共通しているのは、「思いがけないところで、思いがけない出来事をきっかけに、素晴らしいアイディアが生まれ、大発見がなされた」という事実です。

では、これらの事実は何を意味しているのでしょうか? 「新しいアイディアの発見は偶然に支配される」ということでしょうか? 着想や霊感は、予告なしに天から降ってくるということでしょうか? そうであれば、われわれは、過去の偉大な発見や発明の経験には学べないことになります。偶然では学びようがないからです。

しかし、そうではないのです。これらの例は、大発見がむしろ必然の法則に支配されていることを物語っています。それについて、以下に述べることとしましょう。

ポイント 科学史に残る多くの大発見が、偶然のきっかけで生じている。これは、何を意味するのか?