(本記事は、西田 健氏の著書『コイツらのゼニ儲け アコギで、エグくて、ときどき怖い』秀和システムの中から一部を抜粋・編集しています)

テニス
(画像=PIXTA)

松岡修造【スポーツキャスター・解説者】

暑苦しさに隠された悲しき「過去」

【一言コメント】
都市伝説の世界では、すっかりおなじみになった「松岡修造は天候を操る」説。オカルト業界では、今や「太陽神」と呼ばれております(笑)。その気になれば世界のセレブとして雲上人になれるのに、平然とテレビで道化を演じるのもテニスに対する溢れんばかりの愛情あってこそ。その素晴らしさを伝えたくて書いた原稿でございます。2019年度も第4弾となる『まいにち、新・修造!』が発売中。ぜひ、あなたの部屋にも修造を!

松岡修造
【沿革】
8歳からテニスをはじめ、慶応中等部2年生で全国制覇、高校を中退し、米国に留学、1986年プロ入り。わずか3年でトップ10位内になり、4大大会に挑戦するようになる。一時、低迷したが95年ウィンブルドン準決勝進出の快挙を果たし、98年現役を引退。スポーツキャスターとして活躍する一方、テニス普及と強化に尽力している。

【特徴】
選手としては世界トップクラスのサーブが武器で、好調時には時速200キロを軽く超えるサービスで圧倒した。が、メンタルが弱く、重要な試合ほど自滅し、「逆転負けの修造」「練習試合の王者」と揶揄されていた。世界的メンタルコーチに師事して以降、今の暑苦しいまでのポジティブさを獲得、メンタルの強化がウィンブルドンでの活躍に繫がった。

【金儲け】
阪急東宝グループの直系で、東宝グループ総帥の松岡家の次男。相続した株式だけで一生、遊んで暮らせるだけの資産を保有する。あの独特なキャラでCM出演は常に上位をキープ、年収は5億円を軽く超える。一方でテニスの普及に繫がる場合、ノーギャラでも出演し、「修造チャレンジ」などの普及イベントでは自費で補塡することも多い。

暑苦しさとさわやかさ

この暖冬は、まさか、あの男のせい……。

12月というのに気温24度を記録した2015年末。そんな真冬の暑苦しさのなか、頭に浮かんでくるのが、あの御仁の顔でしょう。

そう、日本一暑苦しい男「松岡修造」でございますね。

12月といえばカレンダーを買う季節。そのカレンダー業界を席巻中なのが、あの暑苦しい台詞を選りすぐった「(日めくり)まいにち、修造!」(PHP研究所)なんですねえ。なんとなんとの50万部の大ヒット。それに気をよくした出版社は、この冬にかけて第2弾「日めくり、ほめくり、修造!」、さらには修造の名言で綴る「修造かるた!」まで矢継ぎ早に出版しちゃったわけで、当然、日本全国のご家庭に、たくさんの「日めくり修造」が飾ってあるのですから、それが結界となってシベリア寒気団を日本の上空から追い払ってしまったのかもしれません。

何をバカなことを、と思っている人もいるでしょうが、「修造の暑苦しさが天候を左右する」は、有名な「都市伝説」。信じている人は、けっこう多いんですよ。

この修造伝説が生まれたのは2010年のバンクーバー五輪が発端でした。レポーターに起用された松岡修造がカナダ入りするや、なぜか気温が上昇、スキー場の雪が減ったんですね。

それで「修造の暑苦しさのせいだ」という笑い話になっていたわけですが、2013年、ゴルフの全英オープンでも同様の現象が発生。修造が現地入りすればイギリスは連日の猛暑、修造が帰国すれば、これまた日本全国で40度越えの猛暑日となる。

そんな天気まで動かす松岡修造の「暑苦しさ」ですが、熱帯夜のような鬱陶しさはなく、むしろ、いい汗を流すサウナ風呂と申しますか、暑苦しさのなかに不思議と「さわやかさ」があるんですね。それがスポーツ選手カレンダーランキングで羽生結弦を押さえてトップになったり、男性タレントCM起用ランキング1位(2014年)になったりする高い好感度に繫がっているのでしょう。

松岡修造の商品価値、ビジネスモデルは「暑苦しいのに爽快感がある」という二律背反する事象を成立させているところにあります。

どうして修造の暑苦しさはさわやかなのか。ご紹介していきましょう。

修造はなぜ修造なのか

そもそも松岡修造は、バラエティ番組に出るような人物ではないんですよ。

祖父は阪急東宝グループ創始者の小林一三(いちぞう)、実父は東宝社長という阪急東宝財閥の直系御曹司。しかもテニスプレイヤーとしてはウィンブルドンベスト8(1995年)、錦織圭が登場するまでは戦後ナンバー1の選手、身長188センチのイケメン。世界のセレブ相手に引けを取らないスペックの持ち主なんですから、本来なら住む世界が違っていても不思議はなかったんですね。

どうして、ああなっちゃったのか、といいますと、テニスのために「人格改造」、ようするに自ら洗脳されてしまったからなのです。

デビス杯日本代表だった父親の下、テニスの英才教育を受けてきた松岡修造は、瞬く間に日本のトッププレイヤーになります。とはいえ、この時代、日本テニス界は暗黒時代でして、ウィンブルドンを筆頭とする4大大会に出場することさえ覚束ないほど低迷していました。テニスの世界は、ランキングポイントでビッグトーナメントの出場権が決まります。そのポイントを稼ぐためには世界中の公認大会を転戦して、コツコツ貯めなければなりません。ところが経済大国かつテニス熱の高い日本では国内の大会で活躍するだけで簡単にスポンサーがつきますから、わざわざ苦労してまで世界中の地方都市のショボイ大会に出ようなんて思いません。しかも出場したところで世界中のプロ予備軍相手にコテンパンにやられちゃうわけで、国内でちやほやされている選手にすれば、ウィンブルドン出場なんて夢を見れば身を破滅させる〝悪夢〟でしかなかったわけですよ。

――いつか、ウィンブルドンのセンターコートに立ちたい。

修造少年はそんな大きな夢を抱きます。普通の選手は日本テニス界の構造的な欠陥の前に、すぐに夢から覚めるんですが、そこは、さすが「お坊ちゃま」。行動がシンプルというか実に素直でして、国内にいては強くなれないと聞けば、すぐさまアメリカへテニス留学。メジャー大会に出るにはポイントが必要と聞けば、貯まるまで世界中の地方のサーキットを転戦するというノリで数々の関門をクリアして、いよいよ4大大会へと挑んでいきます。

しかし、ここで大きな挫折を迎えます。

テニスは4大大会でシードされるかどうか。世界ランキングでいえば50位以内に入るかで一流と二流をはっきり区別します。収入も桁が二つ以上違ってくるのです。そのため100位から50位では、地獄のような死闘が繰り広げられます。そんな命がけのサバイバルに、「お坊ちゃま」である松岡修造は、精神的に耐えられなくなっていくんですね。

トップ20に入るポテンシャルと誰もが認める実力がありながら、生来のメンタルの弱さが原因で深刻なスランプに陥ってしまったのです。実際、この時代の修造のニックネームは「練習キング」。練習試合では圧勝する相手に公式戦、重要な大会ほどビビリまくってミスを連発、勝手に自滅する試合を繰り返します。

お坊ちゃま的な性格は生まれ持ったものですから、そうそう変わることはありません。その唯一の方法は「洗脳」だけ。自分の性格を徹底的に破壊して再構築する。そんな危険な人格改造を松岡修造は「世界で活躍したい」その思いからついに決断します。

中村天風や自己啓発セミナーにも通ったといわれていますが、実際に修造にブレインウォッシングを行なったのは、ジム・レーヤーというアメリカのメンタルトレーナー。トップ選手しかコーチを引き受けないという超一流のコーチですが、そこは、やっぱり阪急東宝マネーもあったんでしょう。修造の人格は、ある日を境に、文字通り、人が変わったようになります。

異常なほどポジティブに、逆境ほど前向きに、どんなトップ選手にも物怖じせず、日本人離れしたメンタルを持つ……、そう、今、私たちの知っている「暑苦しい修造」になっていったのです。その「生まれ変わった修造」のデビュー戦が1995年のウィンブルドンだったのです。

そこにはチャンスになると勝手に自滅する、かつての修造はいませんでした。チャンスほどビッグサーブを決め、ピンチになるほど力を発揮した結果、松岡修造はセミファイナルまで進出、逆転に次ぐ逆転での勝利に日本中が熱狂します。ちなみに準決勝の相手だった当時、世界2位のサンプラスもジム・レーヤーに人格改造を施された「先輩」だったと付け加えておきましょう。

50万部のカレンダーに込められた思いとは

1998年、松岡修造は30歳の若さであっさり現役を引退します。

早期に引退した最大の理由は、せっかく修造が1995年のウィンブルドンで「日本人男子選手でも世界に通用する」ことを証明したにもかかわらず、下の世代に世界に挑戦する気概を持った若手選手がいなかったことへの危機感があったからだといわれています。人格を変えてまで自分が切り開いた「世界」への道を誰も歩いてくれないのですから、そりゃあ、修造でなくとも悲しくなりますよ。

だからこそ修造は、積極的にテレビに出演、バラエティで「笑いもの」になることも厭いませんでした。

先ほども申し上げましたが、松岡修造は、世界的なセレブになれる人材です。日本有数の財閥の御曹司で、一流のテニスプレイヤー、バランスの良い体型にさわやかなルックスで語学も堪能。これだけの条件を揃えた人材は、世界でも希有なんですから、その気になれば欧米社交界でもやっていけます。日本のテレビに出る必要などまったくないんです。

それでもテレビに出て「笑いもの」になったのは、あの熱く強いキャラこそ、日本人が世界で戦うために必要なメンタリティであると信じているからでしょう。バラエティに出演すれば、たくさんの人が視聴します。そのなかには、テニスをして世界で戦いたいという夢を持った少年がいるはずです。修造は彼らに向けて「物怖じするな」「恥ずかしがらず自己主張しろ」「周囲に馬鹿にされても気にするな」と、日本人特有のシャイな性格を直せ、と伝えようとしているのです。その証拠に松岡修造は、少年世代の育成のためにボランティアで「修造チャレンジ」というテニスキャンプを定期的に開催しています。

そのキャンプに呼ばれたのが、2001年、当時、11歳だった錦織圭なんですね。テレビ映像が残っているんですが、それを見ると修造は錦織の「技術」には、一切、手を付けず、6日間のキャンプ中、ただただ、錦織少年に「もじもじするな」「いいたいことがあれば、はっきりと大きな声で主張しろ」と、メンタルだけ鍛えているんですね。テニスでは強気なのにコートの外では、途端に内気になってしまう錦織少年を、怒鳴りつけ、叱り飛ばし、最後には泣かせるほど精神的に追い込んでいるほどです。

それがいかに大切なのか、この3年後、アメリカのテニスアカデミーに留学した錦織は、嫌と言うほど痛感したことでしょう。「修造チャレンジがあったから今の僕がある」、2014年、全米オープン準優勝という快挙を成し遂げたとき、錦織は、そう語っています。たった6日間、教えただけの松岡修造を「師匠」といって慕っているのは、そのためなんですね。

錦織圭が登場するまで、戦後、世界で通用した日本人男子選手はたった一人、松岡修造だけです。そんな人物が、バカみたいに物怖じせず、何事も恥ずかしがらず、常に前向きでポジティブにしていれば、それが「世界に通用するメンタルのあり方なんだ」と、素直に受け取れます。事実、試合前に選手たちに「今から、おまえは修造になりきれ」と指導するコーチは多いそうです。良いお手本になっているんですね。

あの「日めくりカレンダー」にしても同様です。あのキャラを売りに商売しているのではなく、一人でも多くのテニス少年の目に触れて欲しいからやっているのです。

松岡修造の燃え盛るテニスへの熱い情熱が、そのまま修造の暑苦しさなのですから、修造の暑苦しさのなかに「さわやかさ」があるのは当然。売れたい、稼ぎたいという欲まみれの二流芸人が作った「キャラ」とは志が違うのです。

まあ、世界と戦う気のない大半の人にとっては、まったく暑苦しいかぎりで、はた迷惑ともいえなくはありませんけどね(苦笑)。(2016年2月号)

イツらのゼニ儲け
西田 健(にしだ けん)
1968年広島県生まれ。下関市立大学卒業後、男性週刊誌の記者や『噂の真相』などを経てフリーライターに。書籍、雑誌を中心に活動する。
現在、『紙の爆弾』(鹿砦社)で「コイツらのゼニ儲け」を連載中。

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