(本記事は、中林美恵子氏の著書『沈みゆくアメリカ覇権』小学館の中から一部を抜粋・編集しています)

武漢発・新型コロナウイルスが中国への不快感を増大させた

アメリカ
(画像=PIXTA)

しかし、コロナ危機がアメリカを襲うまで、トランプ大統領は「ビッグディール」を好み、中国、ロシア、そして北朝鮮などと交渉するにあたって、価値や理念に囚われずに渡り合おうとしてきた。その分、民主主義や自由といった価値の部分は、政策重視型の政府高官や閣僚そして専門家に任せつつも、ディールが近くになると意見の合わなくなることも多々あった。外目からも、自身と対中国強硬派の側近たちの間が乖離し、一貫性がないとか気まぐれだとかという大統領への批判につながる側面もあった。しかし、これが新型コロナパンデミックの後から、中国政策に関する乖離や溝が、急速に小さくなる傾向がみられている。アメリカ国民の中国への不信感も高まっており、ピュー・リサーチセンターが2020年7月に行った世論調査によれば、中国に対して不快感を抱く人が73%と急増し、好感を持つ人は26%となった。2017年には両者が五分五分だったので、大きな変化である。選挙を考えれば、国民の気持ちを前にしてどう振る舞うべきかと大統領は考えているはずである。

それでも、アメリカ・ファーストを唱える大統領は、2017年11月中旬のアジア初歴訪の間に、中国側に軍事拡張を咎めないとするようなサインを送っている。「主権を放棄するような大きな協定には取り組まない」とも述べたのだ。その時に鮮明となったのは、内向きの論理を優先するアメリカ・ファーストの姿勢だった。包括的なアジア戦略を語った同10日の演説では、多国間の貿易ルールづくりを否定し、アメリカの都合に沿う貿易を求める発言が目立った。北朝鮮や南シナ海の問題で東南アジア諸国連合(ASEAN)の声明に意見を述べるはずだったのに、結局コメントは省かれた。同14日のASEANと日中韓の首脳会議では、南シナ海問題は議題にならなかった。トランプ氏はベトナムの国家主席との会談で、「私が仲裁や仲介ができるなら知らせてほしい」と述べ、南シナ海問題の当事者から仲裁役に立場を後退させるような発言もした。

ところが、2020年も中盤に入り、トランプ政権は安全保障において厳しい態度に転換していく。大統領選挙での苦戦や、パンデミック危機にさらされ、「ビッグディール」で商業的な価値を狙うだけの余裕が大統領になくなってきたのだろうし、そのせいで閣僚や高官など政策の専門家が中国政策の強硬化を進めやすくなったのかもしれない。

そして前述の通り、ポンペオ国務長官は、中国は「完全に違法」であると宣言し、南シナ海エリアでの領有権を認めないという声明を発表したのである。これは、中国が南シナ海で主張する独自の境界線「九段線」を無効と判断した2016年の仲裁裁判所の判決とアメリカの立場を一致させるものだった。かつての「アメリカは領有権紛争に肩入れしない」という中立的な姿勢を取りやめ、中国以外の周辺国の主張を公式に支持することを意味した。非常に大きなアメリカの立ち位置転換とみられる。

さらに大統領が、大統領選の投開票日まで4カ月を切った2020年7月7日、「恐ろしい中国ウイルスだ。こんなことが起こってはならなかった」とホワイトハウスで語り、新型コロナの発生源が中国だと強調した。ニューヨークタイムズなどの報道によれば、トランプ政権は中国共産党員を全面入国禁止にすることさえ検討しているそうだ。今後議会が通過させようとしているさまざまな法案(南シナ海・東シナ海制裁法案や、外国企業説明責任法など)に対しても、大統領選で勝ちたいトランプ大統領が今後どのように対応するのか、大いに注目される。

このような状況が続き、また中国がアメリカの主張に耳を貸さない限り、少なくとも大統領選挙が終わるまでは中国への厳しい対処がエスカレートすることになるだろう。

トランプ氏が承認した「香港自治法」は中国への強烈な脅し

香港
(画像=PIXTA)

このような厳しい状況に、中国は反発を強めている。かつての日米貿易摩擦時代は、日本がアメリカからの圧力を受け入れつつ安全保障面での協力などの措置を進めてきた。しかし中国共産党の一党支配の下、アメリカと同盟関係にもない中国がそのような対処をするはずもない。またアメリカ側も、米議会で審議し大統領の署名を得て成立した香港自治法および香港人権・民主主義法に見られるように、アメリカは自由や人権という価値観のためにも、中国に対して厳しい姿勢を打ち出してきている。こうした問題を中国は内政干渉だとし、香港や台湾のみならず、南シナ海での活動も中国の権利であると主張するばかりだ。

そうした中国の対応を正していくのは、非常に難しい。実は中国の肩を持つ国々がすでに存在するからだ。国連や国際機関ではどのような発展途上国であろうが、人口の少ない国であろうが、票を投じる時などは立派な一票となる。中国が香港国家安全維持法を導入した際には、施行直前の2020年6月30日に、英国の在ジュネーブ国連大使が主導して、日本、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、スイスなど27カ国が同法に抗議した経緯がある。「一国二制度により保障されている高度な自治と権利、自由を害するので、中国に再考を求める」という内容の共同声明を発表した。しかし、同日ジュネーブの国連人権理事会では、キューバが53カ国を代表して中国に対する支持を表明した、と新華社が伝えている。ロシアは堂々と賛成および支持の意向を中国に伝えたことが世界中で報道された。中国は国際世論の分断に早くも成功しているといえそうだ。

こうした状況を踏まえて中国は、決定的な米中亀裂が世界を二分する前に、自国の影響力を強めるタイミングとチャンスをうかがう必要が生じてきている。トランプ大統領が2020年7月14日に署名して成立した「香港自治法」は、議員たちの主導で内容が詰められ大統領に行政的な判断を促しオプションを与える内容になっている。基本的に中国の大手銀行に対し金融制裁の道を開くものとして理解されている。アメリカの銀行との取引を禁じる8つの手法も列記された。これが実行されれば中国に対しドル調達という手段を通じて「封じ込め」を行えるため、いわゆる強烈な脅しになるわけだが、実際のところ絶対に実行されないという保証があるわけでもないため、脅しだけでなく実際に世界の金融システムに亀裂が入る懸念が払拭できないと警戒もされている。

この法律によれば、2段階の経済制裁が想定できる。まず国務省が90日以内に香港の自由や自治を侵害した個人や団体を特定し、そしてドル資産の凍結などの制裁が必要どうかを検討する。その個人や団体と取引がある金融機関が対象となるため、第三者も気を緩めているわけにはいかない。具体的な制裁手段としては、アメリカの銀行による融資の禁止、外貨取引の禁止、貿易決済の禁止、アメリカ国内の資産凍結、アメリカからの投融資の制限、そしてアメリカからの物品輸出の制限などの8項目だ。発動を現実的にとらえた法案であり、また取引中断など社内手続きを講じられるように、制裁発動まで1年間の猶予が金融機関に与えられている。中国だけが対象ではないものの、暗に中国に照準を合わせているのは明確だ。

この法案を主導したのは、共和党のパット・トゥーミー上院議員で、民主党のクリス・バンホーレン上院議員を巻き込んで共同で法案を提出した。トゥーミー上院議員のチーフ・オブ・スタッフ(筆頭補佐官)は筆者の最も仲の良かった元予算委同僚である。会うたびに中国の問題を指摘するほど何年も前から中国を警戒していた。当初は比較的無名の上院議員に仕えている印象があったが、立派な法案を仕上げて名の知れる議員となり、個人的には喜びでいっぱいだ。筆頭補佐官となった元同僚は、日本からのワサビ味グリーンピースが大好きで、今は毎日寝る間もなく仕事をしている。

もともと予算委員会スタッフだった人間を右腕に持ったトゥーミー上院議員は中国の最も弱点とする部分を指摘し、こう言う。

「中国経済の将来はドル取引にかかっている。中国の巨大銀行がドルより(香港の)迫害者との取引を優先するならそうすればいい」

もちろん、これはアメリカ・ドルが基軸通貨だから吐けるセリフだ。日本円でその役回りを演じようとしてもそれは無理な相談である。おそらくドルが手に入らなくなることを、中国は経済への最大の脅威として認識したに違いない。ブルームバーグ・インテリジェンスの情報によれば、中国の国有4大銀行が抱えるドル資金は1兆1000億ドル(約118兆円)に上るとされる。このドルで、中国企業の貿易決済を担うだけでなく、「一帯一路」のプロジェクトで新興・途上国のインフラ投資をする資金を貸し出す際にも大きな役割を果たしている。

もしも、中国企業が海外事業を手掛ける時に、ドルの送金をできなくなったら、中国にとっては最悪のシナリオであろう。アメリカ連邦準備理事会(FRB)とウォール街のドル決済に、スイフト(SWIFT、国際銀行間通信協会決済システム)が使用できなくなるとすると、中国の巨大銀行が1日3兆ドル超の取引額の決済網からはじきだされることにもなり、ドルの資金繰りができなくなる。しかしこの制裁を行うと、大きなしっぺ返しが待っている可能性がある。中国の銀行をドル経済圏からもしも排除するとなると、中国発の金融危機が世界を揺るがすことにもなり兼ねない。かつてアメリカは中国の銀行をドル決済網から締め出したことがある。北朝鮮関連の制裁で、中国の丹東銀行が制裁の対象だったが、さすがに大手銀行に手をかけることはしなかった。法案の作成はトゥーミー上院議員の功績であるが、行政的に法を執行するのは行政府であるため、おそらく甚大過ぎる影響にアメリカもひるんだのではないかと考えられている。

しかし、脅しとしては十分に中国へのメッセージになっている可能性がある。2019年8月、アメリカは中国を「為替操作国」と認定したと宣言したことがあるが、その時中国は、アメリカのドル覇権をしみじみと実感したに違いない。ましてや今度は、スイフトが使用できなくなるという最悪の想定に対し、中国は備えが必要になるのだ。そして実は中国はすでにデジタル通貨を確立し、現在の人民元の脆弱性を補おうと努力を重ねている。ヒントはフェイスブックが打ち上げたリブラ通貨だった。中央銀行で通貨管理ができなくなることに大きな懸念が寄せられ、その構想は国家を超えるデジタル通貨とはなり得なくなったが、逆に今度は中央銀行等が管理するデジタル通貨に発想をつなげた。日米欧もデジタル通貨に大きな関心を寄せているが、中国はそれより早く実現化を図っている。

ただし、人民元での決済システムを確立するのは容易ではない。世界のクロスボーダー(国際間)決済取引のうち、ドルの使用割合は約42.5%で、人民元は現状2.2%に過ぎないところからのスタートである。ましてや通貨の国際化は、使い勝手の良さや意思決定の透明性が必要とされるので非常にハードルが高い。とは言っても、デジタル通貨であれば、一帯一路に参加するような国々を足場に、中国のデジタル人民元を広めることが可能かもしれないし、少なくとも中国は、アメリカの圧力をはねのけるには通貨の国際化が必要になったと知っている。今後中国が通貨や金融にビクビクしなくて済むようにしたいなら、デジタル人民元普及の必要性がますます増すことになるだろう。

アメリカの強みは、何といってもドルが国際的な基軸通貨であるということだ。貿易にしてもサービスにしても、スイフトを通してアメリカは金銭の流れをつかむことができる。そして制裁が必要な国に対して、アメリカ一国でそれを実行することができのである。しかしこれは、アメリカの経済が覇権を維持してきたからであって、アメリカ経済が縮小し影響力を失っていけば、基軸通貨の威力も減少してしまう。中国のデジタル人民元は、経済面でのアメリカへの挑戦であると同時に、決済手段をも争う大きなチャレンジとなっていく。こうした中国の勢いに、どれほどの国々が追従するのかが、勝負の分かれ目になるだろう。アメリカの経済面での後退が進めば、中国の覇権に道筋をつける結果になる。世界の政治、経済秩序がゆらぐ中、大国となった中国が貿易、金融など多くの分野で、圧倒的な覇権を目指し、アメリカに挑んでいる姿がすでに見え始めている。

沈みゆくアメリカ覇権
中林美恵子
埼玉県深谷市生まれ。大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程修了、博士(国際公共政策)。米国ワシントン州立大学大学院政治学部修士課程修了、修士(政治学)。米国在住14年間のうち、永住権を得て1992年にアメリカ連邦議会・上院予算委員会補佐官(米連邦公務員)として正規採用され、約10年にわたり米国家予算編成に携わる。『日経ウーマン』誌の政治部門「1994年ウーマン・オブ・ザ・イヤー」受賞、1996年アトランタ・オリンピック聖火ランナー。2002年に帰国し、独立行政法人・経済産業研究所研究員、跡見学園女子大学准教授、米ジョンズ・ホプキンス大学客員スカラー、中国人民大学招聘教授、衆議院議員(2009〜2012)などを経て、2013年早稲田大学准教授、2017年より教授。

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