2024年上半期をめどに発行される新紙幣のデザインは、新1,000円札が細菌学者の北里柴三郎、新5,000円札が日本初の女子留学生である津田梅子に決定しています。新1万円札は「近代日本経済の父」と呼ばれる渋沢栄一に決まりましたが、この渋沢栄一のことを詳しくご存じでしょうか。

今回は渋沢栄一とはどのような人物だったのか、そして彼の功績についてご紹介します。

近代日本経済の父・渋沢栄一の人物像

金融
(画像= a_text/stock.adobe.com)

渋沢栄一は江戸時代末期の1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。実家は藍玉の製造や販売、養蚕、そして畑作を営む農家でした。家業を手伝いながら、父の手ほどきで学問を身に付け、いとこからは論語も学びました。

その後、生まれ故郷を離れ、一橋慶喜(後の15代将軍となる徳川慶喜)に仕えました。一橋家のために尽くし、慶喜に認められた渋沢は、慶喜の実弟・徳川昭武の随行員としてパリの万国博覧会や欧州諸国を訪問します。

帰国した渋沢は静岡に「商法会所」を設立します。そして明治政府にも招かれ、大蔵省でその手腕を振るったのです。大蔵省を辞めた後は、民間の経済人として活動を始めます。銀行の頭取を経験し、企業の創設・支援や社会公共活動への参加など、実業家として活躍しました。

渋沢栄一のどこがすごい?

多くの日本人が世界どころか国全体のことにも目を向けていなかった時代に、渋沢栄一は先進国に赴いて社会や経済を見聞し、現地で学んだことを日本のために生かしました。渋沢栄一の偉業を具体的に見ていきましょう。

500社の会社設立などに関わった実績!

渋沢栄一は、多くの会社設立や経営に関わったことでも有名です。その数は500近くにも及びます。そのうち約6割の会社は、合併・国有化もありましたが、現在も事業を継続しています。これら関わった会社の中には、渋沢が設立した第一国立銀行の流れを汲む、現在のみずほ銀行、そして東京日動火災保険、東京証券取引所、王子製紙、東京ガス、東京急行電鉄、キリンホールディングス、サッポロホールディングスなど、現在でも業界を代表している大企業も多数あります。

ちなみに英語の「BANK」を「銀行」と訳すようになったのは渋沢栄一の発案だという説もあるそうです。

教育や社会福祉事業にも多く携わる

渋沢は若者の教育にも力を入れていました。例えば、学校の支援に携わったこともその一環です。早稲田大学、一橋大学、日本女子大学など現存する学校も少なくありません。

また、社会福祉分野での活躍も目覚ましく、1874年から生活困窮者、高齢者、障害者を支援する「東京養老院」に関与し、1876年には事務長に任命されます。その後、1890年に東京市営となった東京養老院の院長となり、91歳で亡くなるまでの約50年間院長を続けました。

東京養老院は地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターとして現在も運営されています。

社会に貢献する渋沢の考えとは?

ご紹介した通り、渋沢栄一は多くの事業に携わりました。どうしてこのように多くの事業を手掛けたのでしょうか。

渋沢は1916年に「論語と算盤」という著作を発表しています。この中で渋沢は利益を追い求めること、そして道徳を大事にすること、その両方が大切だと述べています。この精神が、数多くの会社設立への関与と、若者を教育することや社会福祉に貢献することの両立につながったのでしょう。

お金がもうかるのならば何をしてもいいのではなく、仕事で出た利益を社会のために使うことを、渋沢は実践していたのです。若いころから論語を学んでいた渋沢は、社会的に成功してからも論語の精神を忘れることはなかったのでしょう。

現代でも大切にしたい渋沢栄一の精神

新1万円札の肖像に採用されることが決まってから、多くの会社の設立、そして発展に力を注ぎ、社会福祉にも貢献してきた渋沢栄一の功績にも注目が集まっています。

もし渋沢栄一という人物や功績に興味を持ったのならば、まずは「論語と算盤」などの著作を読んでみてはいかがでしょうか。渋沢の考え方は今のビジネスマンにも大いに参考になるはずです。

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