本記事は、尾原和啓氏、宮田裕章氏、山口周氏の著書『DX進化論 つながりがリブートされた世界の先』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。
「世界はつながりであふれている」
古くて新しい「音声のネット」という対話のつながり
尾原 2021年に入り、日本で突如として話題になった音声SNS「Clubhouse(クラブハウス)」ですが、私は現在もさまざまなジャンルの方と一緒に配信を行っています。そこから、いろいろ総括するという期待値を持ちながら待っている感じですね。
面白いのが、Zoomでミーティングをやるとたくさんチャートを出すので、論理脳が動いてしまうのに対し、むしろ音声だけの方が、感情脳が動くためか、「本を読んだり、チャートを見たりしているときはよくわからなかったけれど、今日の話が一番腹落ちしました」と言われることもあります。それで、人間というのはまだまだハックできるな、と思いました。
宮田 なるほど。「あえてテキストにしない」ということがありますよね。
例えばソクラテスがそうですし、イエスもそう、それからブッダも。いわゆる枢軸の時代における3人って、みんなテキストを積極的に利用しなかった人、つまり情報を視覚化せずにコミュニケーションを行った人ですね。
あとは本居宣長(もとおりのりなが)も、テキストにすることのリスクをとても感じていた人だと思うんです。「言葉に託すゆえに」と、あの頃から、テキストにしてしまうことの危うさに言及していて。だから音声によって、ある意味、2500年前に戻っているというか。
ソクラテスは、プラトンが残したソクラテスとお弟子さんの対話を記録するという形式だし、イエスも福音書もあるコンテキストによって「こういうこと言った」という記録ですよね。ブッダの仏典は、如是我聞(にょぜがもん)から入り、要するに「私はブッダがこういうこと言うのを聞いた」という言葉の記録から始まっています。
尾原さんがお話しされたみたいに、チャート化するとか視覚化って、脳の処理する場所が違うわけですよね。
山口 たしかに、テクノロジーの力を使ってどんどん時代を戻していくと考えると面白いですね。活版印刷ができてから情報はどんどん視覚に頼って伝わるようになったけれど、過去の哲学者や思想家の多くが文字に頼らず、音声に頼っていたことを思い出せば、今あらためて「耳で聞く」ということに回帰しているのは面白い現象ですね。
宮田 山口さんがおっしゃったように、今挙げていただいた事例って、そこから解釈の幅や多様性が生まれていますよね。
キリスト教も仏教もそうですけど、いろいろなアプローチで理解してきた人たが、その人なりに会得した上で、さまざまな教義が生まれていった。
ただ視覚化が入ると、それがより強力に人を縛る方向になるので、幅が生まれい。あるいは会得しづらい。限界があるからですね。
その人にとって咀嚼(そしゃく)できるようなかたちで教義を理解してもらうという意味においては、こうしたギミックは、優れたアプローチなのかもしれないですね。
山口 もし、ソクラテスやイエスやブッダの言っていたことが正確に記録されていたとしたら、現状のような広がりを持った思想の体系になりえていたのかというのは、1つの思考実験として面白いですよね。
尾原 実際、宗教には3段階あると言われています。教祖が生きていた時代の「カルト」、教祖にふれて体験したエバンジェリストたちがいる時代の「セクト」、この教祖もエバンジェリストも死んでしまった時代の「チャーチ」です。
キリスト教も仏教も、カルトの時代に増えたのではなく、教祖が死んだ後にエバンジェリストたちが「教祖はこうだったよ」という解釈をして、その解釈がテキストで残ったときに爆発的に広がっているんですよね。
だからやはり、原液を濃くしていくのと、それを普及させるものって、違うことなのかもしれない。
宮田 アーティストの方たちとよく話をするんですが、ぎちぎちのテキスト解釈ですと、そこから生まれる感動というのはなかなか普遍性を持ちづらいそうです。
教義を細かくしすぎると、時代が変わり、文脈が変わった瞬間、齟齬(そご)が生まれてしまうわけですから。いわゆる芸術の表現として、どこが一番の強度かつ普遍性を持つかというと、やはり感情だったりするんですよね。
ある特定の感情をどう揺さぶるのかということが、非常に強度がある芸術につながっていくものなので、細かいディティールの部分も重要です。
ただ、より本質的なのは、普遍的なところをどう揺らせるかだったりもするので、そういう意味では、いわゆる情報量がたくさんあればいいというものではない。いかに研ぎ澄ましていくかといったとき、あえて声に絞っていくなどの議論は面白いですよね。
尾原 教祖のことをテキストに起こすことによって普及力を持たせるのがセクトの時代ですが、実は、社会の基盤になるのはチャーチの時代なんですね。
エバンジェリストすら死んでしまって、教祖を直に見たことがない人がどうやってそれを普及させるのか。つまりチャーチの時代に何をやるのかというと、テキストだったものからもう一回、体験化するんですよ。
キリスト教が爆発的に普及した理由には諸説ありますが、教会を作ったことが大きい。テキストが読めない人でも教会という空間に入ってしまえば、ステンドグラスの中にある物語を体験しながら、聖職者が話す物語を味わうことができる。
さらにいうとゴスペルがそうですよね。
ゴスペルは、キリスト教の聖書にある物語を歌という体験に変換するだけでなく、オクターブが揃ったハーモニーを聞かせると、その上にある高音が幻聴で聞こえる「倍音効果」という現象もあります。
教会の建築って、音の反響でこのオクターブ一個上の幻聴が天井から降っているような錯覚で聞こえるように建築・設計されているという話があります。そのため人が歌っていると、それにあわせて天使が歌っているように聞こえてくる。
それによって皆が奇跡を感じるから、実はキリスト教というのは、体験によって一般大衆の間に広がったという見方もあります。特に昔は文字が一定の知的階層、支配層だけのものだったことも大きな要因です。
今、インターネットというものが、テキストで支配されたものからもう一度体験の時代に戻る、つまりチャーチの時代に向かっているのであれば、対話で同時接続するカルトの時代にも戻ることができるかもしれません。
宮田 尾原さんがおっしゃる通り、布教は、もともと文字を読める人が少なかったから音楽と絵を使っていたわけですよね。
グレゴリオ聖歌みたいなものがあって、教会の中で、大体14枚のイエスの受難の図が絵として描かれていて、それである種の啓蒙や教育をしていたんだけど、そこからテキストが出てきます。ルターが、テキストに直接アクセスさせると。
この発想って結構、グーグル的だと思うんですよね。要するに、プログラムのソースコードにアクセスさせることじゃないですか。
間に入っている情報の非対称性を利用している人は、聖職者という立場であって、これまでアクセスできないようになっていたものが平面になる。
ラテン語がわからない人はアクセスできなかった状態を、ドイツ語でわかるようにして、「plain people for plain world」というように皆がアクセスできるようになった。
そこから段々、活版印刷ができてきて、メディアもテキストから音声、静止画、ムービーになっていく。マスメディアであれば新聞、ラジオ、テレビ、つまり文字や音声、動画になっていった。
でもインターネットの短い歴史と、過去2000年の歴史を対応させてみると、結構捻じれがあるんですよね。
今でこそ、音声メディアがインターネットで初めて浸透してきているけれど、最初はテキストで入ってきている。
だからもともと音と映像で入ってきて、ある種の啓蒙活動をやっていたメディアのあり方からすると、インターネットの初期は最初がテキストで、そこから静止画が入ってきて、映像が入ってきて、今は音声がきているというこの発展の段階が、メディアの発達過程と大きく異なっている。
それをなぜだろうと考えてみると、非常に面白い。
山口 本当ですね。
尾原 誤解を恐れず宗教も「メディア」に分類したとすると、なぜ宗教が体験の中で拡散するのか、ということですよね。
しかも教会を作るのには、莫大なお金や人が必要です。そうまでしてなぜやったかというと、中央集権型の権力とメディアをリンクさせるという原始の体験が宗教であり、その後ヒトラーの時代にラジオになり、第二次世界大戦においては映画になるということなんですよね。
それがインターネットの時代になってきたときに、基本的にはエンパワーメント、誰もが「power to the people」であり、誰もが声をあげられる時代になってきた。つまり分散する民でありながら、その都度、対話を通して仲間ができる時代になったのです。