本記事は、大鹿靖明氏の著書『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』(講談社)の中から一部を抜粋・編集しています。

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(画像=PIXTA)

大蔵省の醜聞

佐々木にとって1993年からの二度目のパリのOECD勤務は、冷戦崩壊から間もないこともあって、刺激的な日々となった。西側諸国は、欧州復興開発銀行(EBRD)を設立し、社会主義から自由主義経済への移行に格闘する旧共産圏の国々への金融支援に取り組んでいた。佐々木の勤め先であるOECDも、旧共産圏の国々が市場経済を導入する制度づくりのアドバイスをすることになった。その仕事が佐々木にも舞い込み、ポーランド、ハンガリー、チェコ、中央アジアのウズベキスタンやカザフスタン、そしてベトナムやモンゴルに出張し、現地政府のアシスタント役としてかかわった。

旧共産圏の銀行制度は「単一銀行制度」と呼ばれ、中央銀行と商業銀行が一体となった国立銀行として存在していた。しかし、その内実は、政府の補助金を様々な経済部門に分配する役割しか担っておらず、西側先進国における銀行とはまるで違うものだった(*1)。証券取引所や証券制度も未整備だったし、何より民間の企業というものがほとんどなかった。

「ちょうど国を新たにつくる状態にあったので、混乱状態でしたが、毎日が非常に面白くて」(佐々木)。話のネタに日本の戦後復興に果たした政府系金融機関の役割を振ってみると、彼らは興味深そうに身を乗り出してくる。旧体制の幹部たちがパージされた後、新しい国家づくりの第一線にいた中央銀行や財務省の幹部たちの多くは、自分と同年配の30代前半だった。ウズベキスタンの財務次官に至っては、生年月日が一緒だった。明治の日本の維新政府は、おそらくこんな感じだったのだろうと想像した。大蔵省の7つ先輩の本間勝が40歳でポーランドの大蔵大臣の顧問を務めていたのにも驚かされた。まるで明治の「お雇い外国人」である。

前回2年半勤務したことがあるだけにパリの街は勝手知っている。当地で長男が生まれて私生活も充実するものだから、当然のことながら東京の官僚生活の魅力は減殺する。とりわけ今の自分の年次では、本省に帰ってもまだ課長補佐で、大量の雑務を器用にこなすことが能力を測る尺度とされていたから、なおさら帰りたくない。しかも、パリにいる間にも親元の大蔵省への逆風は増すばかりで、悪い噂ばかりが聞こえてくる。

95年に入って東京協和・安全の二信組問題が表面化すると、宮澤喜一首相の秘書官を務めて大蔵省のエリートコースに乗っていた中島義雄主計局次長や、田谷廣明(たやひろあき)主計局総務課長が、東京協和の高橋治則(たかはしはるのり)理事長(イ・アイ・イ・インターナショナル社長)からプライベートジェット機で海外に遊びに連れて行ってもらうなど、行き過ぎた接待を受けていたことが発覚した。中島はそれ以外にもさまざまな企業経営者らから少なくとも1億2000万円もの金銭の供与を受け、税務申告することなく秘かに蓄財していたことも明らかになった。

「サラ金」問題が批判を浴びたときの銀行局長だった徳田博美(とくだひろみ)は退官後、非常勤監査役に就いていたサラ金の武富士から「株式公開に向けた指導をしてほしい」と、値上がり確実な未公開株を自分の長女名義で譲渡されていた。しかも、娘夫婦がマンションを売りに出すと、武富士の関係する企業が買い取ってくれていた。

やはり銀行局長だった吉田正輝は大蔵省退官後に就任した日銀理事時代に文京区小石川の2億数千万円相当の自宅マンションを、不動産業者の斡旋によって歌手の山口百恵夫妻が住んでいた港区高輪の6億数千万円のマンションと「等価交換」した。東京国税局はこの差額分に課税しなかった。

二信組から住宅金融専門会社(住専)問題を通じて、大蔵キャリア官僚が様々な役得にあずかっている実態が浮かび上がった。それを大蔵省は相撲界の用語を使って「タニマチ」からの支援と弁明したが、世間はあまりにも非常識な説明に呆れ、大蔵高官への便宜の本質は「賄賂」と見破っていた。

続発する大蔵スキャンダルは、橋本龍太郎首相にとって看過しえない問題だった。自民、社民、さきがけの連立三党は96年12月、大蔵省から財政と金融の機能を分離することで合意し、98年6月に金融監督庁が新設される運びとなった。大蔵省から金融部局を取り上げることにしたのだ。

大蔵省はかつて証券取引等監視委員会が誕生したときと同じように、省を挙げて組織的な抵抗を繰り広げ、当初は検査部門だけを分離することで済まそうとしたものの、自民党内からも異論が出て叶わなかった。次いで、新設される金融監督庁を監視委と同様に国家行政組織法上の八条機関として同省付属機関とするよう巻き返しを図ったが、これも橋本首相に退けられた。橋本は蔵相時代、米国流の証券取引委員会(SEC)の導入案を退け、大蔵省の組織防衛のお先棒を担がされたが、首相になると、通商産業省出身の江田憲(えだけんじ)秘書官を重用し、大蔵省に冷たかった。

いかに自民党の有力政治家への工作に長(た)けた大蔵省といえども、スキャンダルが続発して国民的な批判を浴びるなか、首相からも突き放されて、かろうじて金融・証券制度を企画立案する権限(規則制定権)を金融企画局として同省に存続させることが精一杯の組織防衛だった。監視委ができるときと同じような、政策を立案する規則制定権だけは本省に残そうとしたのである。

醜聞が続発する渦中に佐々木は帰国する気になれなかった。

戻ったら騒ぎに巻き込まれ、普通の生活ができないことは目に見えていた。たびたび海外勤務を経験すると、日本の大蔵省の労働環境に魅力を感じなくなってしまう。OECDでは個室があてがわれるのに、大蔵省は大部屋で、真夏でも夜は冷房を切られるなかでの残業である。官僚としての専門性という点でも物足りなさを感じていた。OECDと比べると、日本の官僚生活はレベルが低く、「こんなことをやっても何ら専門性が身につかない」という思いが強まった。通常は3年勤務のところを、無理を言って4年に延長してもらい、パリの生活は前回と合わせて都合6年半に及んだ。「希望の部署は」と聞かれたので、「金融関係の部署に行きたい」とは答えていたが、本音は少しでも長く海外生活を満喫したかった。

とはいえ、大蔵省の各課の総括課長補佐に就く年次ではあった。なかでも、各局の筆頭課の総括課長補佐に就任するのが省内におけるエリートコースの登竜門となっており、自然と出世を意識する年齢に差しかかっていた。各局の筆頭課の総括課長補佐になるような人材は、各局が「いずれは彼に」と目をかけ、時間をかけて育てている。しかし、海外が長くなった佐々木は、そうした選からは漏れていたようだった。海外で好き勝手なことをしていて、大蔵省の本業にあまり熱心ではないと受け止められていたのかもしれなかった。

内示されたポストは大臣官房金融検査部管理課の総括課長補佐だった。

「金融を希望していたといえば、希望していたのですが……」。示されたのは、当時は明らかに外れと見られたポストだった。検査部門は、キャリア官僚が「ベテラン」と呼ぶノンキャリアたちの職場だった。キャリアは国家公務員Ⅰ種(現総合職)試験を通った主に東大卒で政策立案を受け持つが、ノンキャリはⅡ種やⅢ種試験を経て採用された現場で実務を執行する公務員だった。その身分差は画然としていた。金融検査部はノンキャリの仕切る現場の部署だったのである。

損失補塡問題をきっかけに証券取引等監視委員会ができると、証券局の検査部門のうち証券会社の財務内容を検査するチームと銀行局の検査部門を統合して、新たにつくられたのが「金融検査部」だった。職員は六十人ほどいたが、部長と課長、企画官、総括課長補佐の4人だけがキャリアの指定席で、あとは全員ノンキャリアの職場だった。キャリア組も、部長を除けば、「ちょっと、どうかな」という人が送り込まれてきた部署だった。佐々木を送り込んで検査体制を強化するという意図が大蔵省の上層部にあるはずもなかった。

「キャリアが行くのは、もう終わりなんですよ。要するに私の行くポストが他になかったということなんです」

1997年7月のことだった。


(*1)「ファイナンス」1995年10月号、「OECDによる市場経済移行国への支援活動について」


金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿
大鹿靖明
ジャーナリスト・ノンフィクション作家。1965年、東京生まれ。早稲田大政治経済学部卒。88年、朝日新聞社入社。アエラ編集部などを経て現在、経済部記者。著書に第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』(講談社)をはじめ、『ヒルズ黙示録 検証・ライブドア』、『ヒルズ黙示録・最終章』(以上朝日新聞社)、『ジャーナリズムの現場から』(編著、講談社現代新書)、『東芝の悲劇』(幻冬舎)、近著に取材班の一員として取り組んだ『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』(幻冬舎)がある

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