本記事は、大鹿靖明氏の著書『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』(講談社)の中から一部を抜粋・編集しています。

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記録
(画像=PIXTA)

村上ファンドの崩壊

ライブドアの捜査を通じて東京地検特捜部と証券取引等監視委員会が認識したのは、前年の2005年2月にあったライブドアのニッポン放送株の大量取得の指南役に村上世彰がいたことだった。

村上は1959年、大阪に生まれ、灘中・高卒業後、東大に入学。佐々木とは同級生で、親しく話したことはなかったが、互いに間接的な知り合いがいる顔見知りではあった。通商産業省に入省して16年間、官僚生活を送ったのち99年、オリックスと共同出資でM&Aコンサルティング(通称、村上ファンド)を起業した。2000年に昭栄への敵対的な株式公開買い付け(TOB)を仕掛けたことで一躍、時の人になった。以来、村上ファンドは、一株当たり純資産よりも株価が低い企業や、上場している意味を見出しかねるような企業の株を買い集めては、資産を吐き出させたり、自分が買い占めた株を買い取るよう要求したりするアクティビスト・ファンド(モノ言う株主)として存在感を発揮してきた。彼らも六本木ヒルズにオフィスを構え、ライブドアや楽天、USENなど新興企業の社長に対して、あたかも「指導教官」のように振る舞っていた。

村上が、彼のインサイダー疑惑が調べられていると知ったのは、まだライブドア事件の捜査が続いていた5月半ばのことだった。事情を聴かれていたライブドアの幹部たちは「村上さんが我々のインサイダー情報を知った後でニッポン放送の株を買い増していたことにして、検察が強引に持って行こうとしている」と漏らしていた。

このころ村上ファンドはヒルズを捨てシンガポールへの移転を公表し、大半のメンバーが家族を連れて移住する計画で、村上も目抜き通りに購入したプール付きの豪壮なマンションに引っ越したばかりだった。

村上は捜査が自身の周辺に及ぶことについて「一体何を言っているのか」と思い、5月31日、「ようし、僕が検察を説得してやろう」と意気込んで帰国した。担当の森本宏検事による取り調べにも否認を貫きとおし、6月3日には村上ファンドの顧問弁護士である中島章智弁護士に否認のプレスリリースを出すよう指示した。

しかしその日の深夜、投宿先のホテルにいた村上と村上ファンドの幹部を結んだ電話会議を機に事態は急変することになった。取り調べ検事からは村上ファンドの幹部四人―村上と滝澤建也(たきざわけんや)、丸木強(まるきつよし)、岡田裕久(おかだひろひさ)が逮捕される可能性があるとほのめかされていた。刑事事件化を見越して雇ったヤメ検弁護士、則定衛(のりさだまもる)(元東京高検検事長)ら弁護団も、同様の見通しを示していた。村上以外のメンバーはそれに愕然とし、夜遅くまで話し合ったすえ、村上に電話をかけてきたのだった。警察官僚出身で、村上ファンドのコンプライアンス担当の滝澤が「このままではファンドが瓦解する。俺はファンドを守る」と自己保身を優先させた。しばらく沈黙が続く。岡田裕久が「何も知らない自分が逮捕されるのは耐えられない」とこぼし、通産省時代の村上の部下だった石井賢史が「村上さん1人で行ってください」と言った。1人ずつかわるがわる電話で村上にそれぞれの想いを告げた。「それが皆の総意なのか。真実を貫くのが我々の取るべき道ではないのか」と村上。皆が長い沈黙で応じた。村上は仲間たちの裏切りに驚いたが、意を決し、「わかった」と言った。

4日の朝、全員がそろってホテルを訪ねてきた。丸木と中島が「やはり無罪主張で頑張るべきだ」と進言したものの、すでにそれ以外の多勢が村上を差し出すことに傾斜していた。「多くの者の意見に従おう。俺はそういう男だ」と村上は決した。この日の取り調べから村上ファンドの幹部全員が一斉にインサイダーの容疑を認める供述をした。丸木は無念さがこみ上げて泣いた。「本当は違うんですが、認めましょう」と泣きながら検事のストーリーに迎合した。そして日本経済新聞がダメ押しするかのように五日の朝刊一面トップで、村上ら4人が逮捕されると報じた。

村上はすべてを一人でかぶることにした。6月5日、東京証券取引所の記者会見場に姿を現した村上は「自分にとってミステークはある。検察の言う通り、私はプロ中のプロとしての認識が甘い」と述べ、4日夜に検察の調書にサインしたことを明らかにした(*1)。

村上のインサイダーとは、ライブドアをそそのかし、ニッポン放送株を買うように仕向け、彼らがそうすると知ったうえで村上がニッポン放送株を買い増したことをいう。

村上は2004年9月15日、「N社について」というプレゼンテーション資料を持参して、ライブドアの堀江に対して、これまで村上ファンドが買い進んで18%余を持つニッポン放送株を取得する妙味を解説した。当時ニッポン放送はフジテレビの22.5%を持つ筆頭株主だった。「ウチの保有分(18%余)に、あと30%強集めれば経営権も取得できる、そうしたらフジもついてくる」と持ちかける村上に対して、堀江は「フジテレビいいですね」と乗ってきた。

堀江は、慶應大卒でゴールドマン・サックスなどを経て入社した塩野誠(しおのまこと)を担当者に据えた。村上ファンドには、たまたま塩野の学生時代の友人(女性)がいた。以来、二人が担当者として互いに連絡を取り合うことになった。「かなり面白いゲームじゃない」と彼女がメールをすれば、「かなりでかいゲームだね。僕だけで極秘でやれと言われています」と塩野が応じる。二人はこの日、そんなメールを交わしている。まるで大学生のサークル活動のノリだった。

ライブドアの宮内亮治と中村長也は、ニッポン放送株を買い集める資金をクレディ・スイスから調達することを検討し、打診してみると資金を借りられそうな感触を得た。塩野は10月8日、堀江に「経営権を取りに行きたい」とメールで報告し、堀江は「気持ちよく行ってください。日本のAOLタイムワーナーを作りましょう」と返信する。塩野はそれを受けて村上ファンドの旧友に「買収資金の借り入れが可能になりました。早急にミーティングを開いてください」と持ちかけた。11月8日に設定された両者の会議で、堀江は村上に対して「もうやりますんで、よろしくお願いします」と言った。

検察はこれをインサイダー情報の伝達とみなし、村上は「伝達を受けたわけですから、それ以降、ライブドアが事実を公表するまでの間はニッポン放送株を取得してはいけなかった」と供述した。翌05年1月6日に三度目の両者の会議が開かれると、堀江は開口一番「ニッポン放送にTOBをしたい」と宣言した。村上は「インサイダー情報になるから物騒なことは言わないでくれよ」とたしなめ、村上ファンドの滝澤ら主要メンバーは「どうせ、できるわけはないだろう」と軽んじたが、堀江たちは本気だった。

いったん有罪を認めた村上は後に裁判で無罪を主張することに転じたものの、東京地裁の高麗邦彦裁判長は検察側の主張に全面的に軍配を上げ、村上がライブドアに持ちかけた04年9月15日の会議から堀江をその気にさせて、11月8日の会議でインサイダー情報の伝達を正式に受けたと認定し、実刑判決を下した。

しかし、東京高裁の控訴審で門野博裁判長は一審判決を破棄し、インサイダーの成立した時期を一審よりもずっと限定してみせた。ライブドアが本格的にニッポン放送株取得に向けて動き出した05年1月以降、堀江の意欲を知っていたにもかかわらず、村上ファンドがニッポン放送株の買い増しを続けていた点をインサイダーとみなした。一審で3ヵ月間だった違法期間を1ヵ月に狭め、この間の株取引を「明らかに法を無視したものといわなければならない」と執行猶予付きの有罪判決を下し、最高裁でも確定した。

証券取引等監視委員会は、村上が逮捕される数年前から村上の動向、特に株の買い付け手口などを注視してきたという。だが、東大の学生時代からの古い知り合いの逮捕の方針を佐々木が知ったのは、これもまた直前のことだった。特別調査課の部下が簡単な資料をもって説明に来た。「次は村上をやります、と。一応、インサイダーで狙うとか簡単な説明があっただけでした」と佐々木。すべて東京地検特捜部主導で、佐々木の出番はほとんどなかった。「検察的にはうまくいったということなのでしょうが、金融行政的にはどうだったのかな、という疑問が残りました」。刑事事件になる前に金融行政の面で指導ができれば、事態は軽微に済み、株価暴落や東証の取引停止など社会全体が負担しなければならないコストは低く抑えられるだろう。一方で取り締まられる側は規制緩和によって自由を手にした半面、市場参加者としての規律を顧みていないようにも佐々木には思えた。

村上は、20年以上前に共通の友人の結婚式で佐々木があいさつしたのを覚えているが、さりとて取り立てて親しい会話をした記憶はない。17年に出版した自伝の中で自身のインサイダー事件についての言及は少ない。ただ「私の中ではいまだに、当時のライブドアの状況と、彼らと私たちとの間でのやり取りがインサイダーに当たるものだったのだろうか、と違和感が残ったまま」と記している(*2)。私が村上に当時のことを尋ねても、「過去のことを振り返るよりも、未来のことを考えたいと思っております」と答えるのみで、多くを語らなかった(*3)。

ライブドアと村上ファンドの摘発によってヒルズ族の栄耀栄華(えいようえいが)の時代はあっけなく終焉した。六本木ヒルズに入居していた楽天やヤフーは十把一絡げに見られるのを嫌がり、別のビルに移転した。堀江たちがニッポン放送の株を買い占める資金を用立てたリーマン・ブラザーズの日本法人もヒルズにあったが、2年後の2008年9月、経営破綻し、世界経済に大混乱を招く「リーマン・ショック」を引き起こした。やがてこの出来事は、歴史的事件に位置付けられ、後々まで子供たちの教科書に名前を残すことになった。

佐々木の特別調査課長時代の、最後の事件が愛知県の醬油メーカー、サンビシの粉飾決算事件だった。05年に倒産したサンビシは、日経平均先物の取引の失敗を隠すために子会社に損失を飛ばしていたが、それらを意図的に連結対象から外していた。債務超過だったのにそれも隠していた。悪事を幇助していたのが、クレディ・スイスだった。

経営破綻後、証券取引法違反(粉飾決算)容疑で社長は07年1月に愛知県警に逮捕され、監視委は同2月、名古屋地検に刑事告発した。「(1999年の)クレディの検査のときに入手した資料を活用できていたら、もっと早く問題を摘発できたんですが、そういう仕組みになっていなくて」と佐々木は言った。

幅広く飛ばしデリバティブをまき散らしたクレディによる汚染は、まだ片付いていなかった。


(*1)村上ファンドのくだりは村上裁判における本人の証言(2007年4月12日)、丸木強の意見陳述(2006年11月30日)、滝澤建也の証言(2007年2月27日、28日)などによる

(*2)『生涯投資家』131ページ

(*3)村上世彰からのメール(2021年1月10日)


金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿
大鹿靖明
ジャーナリスト・ノンフィクション作家。1965年、東京生まれ。早稲田大政治経済学部卒。88年、朝日新聞社入社。アエラ編集部などを経て現在、経済部記者。著書に第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』(講談社)をはじめ、『ヒルズ黙示録 検証・ライブドア』、『ヒルズ黙示録・最終章』(以上、朝日新聞社)、『ジャーナリズムの現場から』(編著、講談社現代新書)、『東芝の悲劇』(幻冬舎)、近著に取材班の一員として取り組んだ『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』(幻冬舎)がある

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