本記事は、大鹿靖明氏の著書『金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿』(講談社)の中から一部を抜粋・編集しています。

ダンディ,スーツ,男性
(画像=PIXTA)

佐々木清隆(ささききよたか)は霞が関の官庁街では、ちょっと知られた存在だった。

ジムで鍛えて胸板が厚く、肌は赤銅色に焼けている。シャツは派手なストライプ柄か、カラフルなものを着こなし、ピンクやパープルのネクタイを締める。頭髪は短く刈り込んだうえ、頭頂部だけ厚みを持たせた独特のスタイルである。

地味な安物スーツに身を包み、服装に無頓着な男子が多い霞が関にあって、そのいでたちには明らかに主張がある。見た目はルパン三世か、それとも銭形警部か。中年男性ファッション誌「レオン」の表紙を飾るイタリア人タレント、パンツェッタ・ジローラモのようにも見え、ついた渾名(あだな)は「ジローラモ」である。

「『ちょいワルおやじ』って、ずいぶんからかわれましたよ。でも、私が着ているのは、別にブランド品じゃないですよ。安物ですから」。そんな渾名がつくことを、さして嫌がる風でもない。黒衣(くろご)に徹して目立つのを嫌う官僚の世界では、異色なのである。

その彼は、歩んだ官僚人生も異色だった。

東大法学部を卒業し、1983年に大蔵省に入省。経済協力開発機構(OECD)に二度出向してパリ生活を堪能し、国際通貨基金(IMF)に派遣されてワシントンでも働いた。

海外生活は約10年。ここまでならば、大蔵官僚の世界を知らぬ人は、きっと絵に描いたようなエリートコースを歩んだように思うだろう。

しかし、それ以外の多くの時間は、大蔵省金融検査部管理課課長補佐、証券取引等監視委員会特別調査課長、公認会計士・監査審査会事務局長など、検査や調査、審査の部署ばかりで過ごすことになった。

ありていに言えば、問題企業の監視と不正の摘発、そして再発防止策の立案である。その期間はざっと20年に及ぶ。国家予算を編成する主計局や、税制をつかさどる主税局の勤務が「格上」とみなされる旧大蔵省の風土の中では、その歩んだ道は明らかに傍流であった。「だんだん外れちゃって、まぁ、主流ではないですね」。だが、2019年7月、金融庁総合政策局長のポストを最後に36年間の官僚人生を終えたとき、振り返ってこう思った。「これだけ経済事件にかかわってきた人間もいないのではないか」と。

損失補塡など証券不祥事。山一証券の破綻の陰にいたクレディ・スイスなど外資系証券会社の不正行為。カネボウやオリンパス、そして東芝の粉飾決算事件。ライブドアと村上ファンドの六本木ヒルズ族の事件。さらには株取引の魑魅魍魎(ちみもうりょう)が群がった様々な不公正ファイナンス事件や仮想通貨の不正流出……。その歩みは見事なまでに平成経済事件史と重なる。

佐々木は大蔵キャリアとしては珍しく、企業犯罪に対峙し、常に新しい事件を解決する役回りを担ってきた。その点でいえば、ルパンというよりもむしろ、怪盗を永遠に追いかける銭形警部なのである。

本書は、佐々木清隆の半生と彼のかかわった経済事件の記録である。

上を向いて歩こう

東京・足立区の千住(せんじゅ)は古くからの交通の要衝で、日光街道の初宿となる宿場町だった。日本が敗戦の衝撃から立ち直り、高度成長に突入していた1961年、佐々木は、この東京の下町に生まれた。父は営団地下鉄の職員。母は専業主婦のかたわら内職で家計を助けた。

坂本九の歌う「上を向いて歩こう」が街に溢れたこの時代、木造二階建ての家屋が密集する千住の路地から空を見上げれば、地域の象徴だった東京電力千住火力発電所の四本の煙突、通称「お化けエントツ」の威容が見えた。佐々木が三歳のときに煙突は解体され、後に入学した区立小学校の校庭には、煙突を輪切りにして作られた滑り台があった。

成績が良かった佐々木は小六の二学期になって突然、中学受験のための進学塾、四谷大塚進学教室に通わせられることになった。東京の塾ブームは、戦後のベビーブーマーが高校受験する63年ごろにまず中学生を対象に始まり、71、72年ごろからは「東大をねらうなら中学受験から」と小学生に対象が広がった(*1)。佐々木の両親は高卒だったため、我が子に学歴をつけさせたい気持ちがあったのだろう。

敗戦後、華族制度が廃止され、財閥が解体され、農地改革が行われた日本は、門閥や社会的な身分が依然としてモノを言う欧州諸国とは異なり、比較的「機会均等」な社会となり、中央省庁や大企業でエリートの道を歩むには、東大を頂点とする名門大学を卒業すればよかった。東大に入るには、中高六年一貫教育を売り物にする難関校に進学するのが近道で、そのためにはまず小学校の高学年のうちから中学受験対策をする塾に通う。こんな風潮が首都圏で広まった。

佐々木が塾に行かされたのは、小学生相手の進学塾が盛んになり始めた時期と重なる。

「といっても、北千住から中学受験をさせようなんていう家はまだ極めて珍しくて。ウチの場合は、親がどこからか聞きつけてきたらしくて、急に『行きなさい』ということになったんです。でも六年生の二学期からじゃ、遅いですよね」

にわか勉強では歯が立たず、志望校の国立や名門私立には落ち、受かったのは池袋の立教中学校だった。

木造住宅が連なる千住から電車を乗り継いで辿り着く池袋の立教は、少年には別世界であった。向かいの立教大には蔦が絡まる煉瓦造りの歴史的建造物の校舎が並び、中学には「チャプレン」と呼ばれるキリスト教の聖職者がいて宗教教育や礼拝の時間がある。

「下町の小学校から行ったのでインターナショナルな雰囲気にびっくりして、英語の先生もネイティブの、確かカナダの方でした」

軽井沢にある立教の山荘に林間学校に出かけて、そのときに初めて軽井沢という別荘地があることを知った。LL教室にはソニー製の最新鋭の機械が導入され、ブースに仕切られた席に座る生徒たちはヘッドセットをつけて英語を聞き取り発声する。万事ハイカラで先進的。そんな環境のおかげで英語が好きになり、ESS部に所属した。「チャペルで礼拝したりして雰囲気が洒落ていて、当時からいずれ海外に行きたいなと思いましたよ」。後に海外に勤務し、外国生活を楽しむようになる下地は、立教でつくられた。両親は「そのまま大学まで立教で」という気持ちだったようだが、本人は「お坊ちゃん」ばかりの学校にいまひとつ馴染めない。

「中小企業の経営者の息子が多くて、学校を出たら後を継ぐという感覚でした。みんな遊んでばかりいることにも違和感がありました」

高校は他校に進むことを考え、開成高校を受験して合格した。

開成は立教とは大違いだった。

家族的で面倒見がいい立教に対して、開成はほったらかし。校内の施設が新しく暖房もある立教に対して、開成は老朽校舎。窓ガラスは割れたままで、寒風が吹きすさぶ真冬はコートを着て授業を受けるありさまだった。大学の一般教養レベルの古文や漢文の授業にも面食らった。

なによりも一学年400人のうち上位100人の点数一覧表を「百傑」と称して藁半紙に印刷して配るので、誰がどの程度の学力か一目瞭然となってしまう。中学校から開成に入学している生徒は一年先に授業が進んでいて、高一の段階で高二の学習内容に取り組んでいるものだから、高校から入ってきた佐々木は到底かなわない。だから「ともかく高一のときは一生で一番勉強しました。朝起きて勉強して、学校から帰ってきたらちょっと寝て、また勉強」と、勉強漬けの日々を送ることになった。

その甲斐あって、定期試験とは別にある実力テストでは上位につけた。高校の三年間に7、8回あった実力テストは一回目で十位以内に入り、後には学年一位を取ったこともある。

同級生の堀江重郎(順天堂大教授)は「佐々木君は常にトップクラスでした。立教仕込みなのか、それとも、もって生まれた才能なのか、英語は屈指の成績でした」という。堀江によれば、「ちょいワルおやじ」になるずっと以前の、当時の佐々木少年の風貌は、「色白のジャニーズ系の美少年」だったそうだ(*2)。

佐々木が高二の77年、同学年の生徒の家庭内暴力が激しくなり、悲観した父親が我が子を絞殺する「開成高校生殺人事件」が起き、世間に大きな衝撃を与えた。学歴社会を追求した挙げ句、テストの結果という単一の評価尺度しかない日本型エリート教育の犠牲者だった。この後、同種の事件は今日まで日本社会で相次ぐようになる。

学園内に重苦しい空気が漂うなか、佐々木は79年、初めて導入されたマークシート方式による共通一次試験を経て東大に合格。この年、開成からは121人が合格し、東大受験合格者ランキングで一位になった。

東大生となった佐々木は教養課程を終え、駒場から本郷のキャンパスに移ったころから国家公務員試験を受けることを意識し始めている。

この当時ベストセラーになったエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、通商産業省などのエリート官僚が戦後復興と高度成長において果たした役割を高く評価し、日本の官僚は戦勝国の学識者から面はゆくなるほどの賛辞を受けた。大蔵官僚絶頂のこの時代、蔵相の渡辺美智雄は、新卒採用を担当した大蔵省秘書課の中島義雄(なかじまよしお)企画官に「異色の人材を採れ」と命じ、82年入省組は東大以外の早慶卒や女性(後に自民党国会議員になる片山さつき)にも門戸を広げた。NHKはその様子をドキュメンタリー番組「大蔵官僚の誕生」(*3)として放送し、写真週刊誌の「フォーカス」も「現代の秀才の標本箱」と6ページにわたって取り上げている(*4)。

この期の27人は確かに入省時点では前途洋々たるエリートの卵だったが、その後半生は必ずしも平穏とはいかなかった。このうちの一人は、大蔵省接待汚職事件で野村など四大証券と住友銀行から343万円相当の接待を受けたことが収賄とみなされて、有罪判決を受けた。同期のトップを走って財務事務次官に上りつめた福田淳一(ふくだじゅんいち)は、女性記者へのセクシャルハラスメントで次官を引責辞任。財務省理財局長から国税庁長官に栄進した佐川宣寿(さがわのぶひさ)は、森友学園問題の公文書改竄(かいざん)事件への関与が疑われている。後に次第に明らかになるが、日本型受験エリートにはノブレス・オブリージュという感覚が乏しいのである。

佐々木が国家公務員試験を目指して一緒に試験勉強に取り組む勉強会仲間の、そのまた友人に、小柄だが、やたら威勢のいい関西出身の男がいた。スポーツカーで大学にやってきたり、女子大生がまだ少ない東大のキャンパス内をこれ見よがしに女性と闊歩(かっぽ)したり、わざと目立ちたがるような男だった。灘高出身の村上世彰(むらかみよしあき)といった。「友達の友達が村上。当時からすごく目立っていましたね」。後にますます目立つようになる村上と、佐々木は二十数年後、攻守相まみえることになる。

英語が得意だったので長期信用銀行や都市銀行、総合商社で国際的な仕事をすることも考えたが、結局、大蔵、通産など主要省庁を訪問し、最後は「役所の中の役所」である大蔵省に的を絞り、採用が決まった。ときに第一次中曽根内閣、蔵相は竹下登。このときの大蔵省83年入省組の同期25人は全員男性で、そのうち20人が東大卒だった。異色ずくめだった一年先輩と比較すると、人材の多様性は少し失われたかもしれない。

「国際的な金融の仕事をしたい」という本人の希望がかなえられたのか、配属先は銀行局調査課であった。


(*1) 「乱塾時代」79ページ

(*2) 順天堂大の堀江重郎教授への電話インタビュー(2020年7月30日)

(*3) NHK、1981年11月19日、ルポルタージュにっぽん「大蔵官僚の誕生」

(*4) 「フォーカス」1981年12月11 日号、「82年度大蔵省新入りエリートの骨相」


金融庁戦記 企業監視官・佐々木清隆の事件簿
大鹿靖明
ジャーナリスト・ノンフィクション作家。1965年、東京生まれ。早稲田大政治経済学部卒。88年、朝日新聞社入社。アエラ編集部などを経て現在、経済部記者。著書に第34回講談社ノンフィクション賞を受賞した『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』(講談社)をはじめ、『ヒルズ黙示録 検証・ライブドア』、『ヒルズ黙示録・最終章』(以上朝日新聞社)、『ジャーナリズムの現場から』(編著、講談社現代新書)、『東芝の悲劇』(幻冬舎)、近著に取材班の一員として取り組んだ『ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相』(幻冬舎)がある

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