本記事は、江口克彦氏の著書『こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助のリーダー学』(アスコム)の中から一部を抜粋・編集しています
部下には「3つのこと」を言いつづける
一所懸命努力して、〝いい結果が出せた〟と思ってリーダーに報告したら、
「そのような結果は期待していなかった」
そう言われるくらい悲しいことはありません。まして、叱られたり文句を言われたらなおさらです。
しかし、それは部下の責任ではありません。はっきりと指示しなかった上司の責任です。部下にやる気を起こさせ育てるためには、方針を明確にし、それを訴えつづけなければなりません。それには3つの要素が必要です。
1つ目は〝なんのために、どのようなやり方で〟という「経営理念」、2つ目は〝こうなりたい〟という「将来のビジョン」、3つ目は「具体的な目標」です。
松下幸之助は、この3つのことをいつも明確に示してくれていました。だから、努力の方向を確認することができたし、非常に仕事がしやすかったのです。
なんのためにこの会社は存在しているのか
ある週刊誌を発行している出版社の人がいました。その人はいつも、「こんな週刊誌をつくっている自分が情けないですよ。できることなら辞めたいと思っているんです」と言って、編集長であることを恥ずかしく思っているようでした。私はその人を気の毒に思うと同時に、この出版社の経営者は自分の会社がなんのために存在しているのかということを社員に話していないのではないかと思ったものです。
どのような会社にも存在価値はあるはずで、経営者はその方向をはっきり見定め、社員に力強く示さなければなりません。「なんのためにこの会社が存在しているのか、どのようなやり方で行っていくのか」という考え方が、すなわち経営理念です。
その経営理念が正しいものでなければならないのは言うまでもありませんし、正しくなければ企業として存続し得ないでしょう。正しさとは、大変難しい問題ですが、人間の幸せ、社会の発展に結びつくことと考えてもいいのではないでしょうか。
以前、ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山山中に墜落して大騒ぎになったことがあります。たしかそれから一カ月ほどして、東京の企画会社がつぶれました。その裏には、次のようなことがありました。
その会社の社長は、社員を御巣鷹山に登らせて、リュックに事故現場の土をいっぱい詰めて持ち帰らせました。そして、その土を小さな化粧箱に入れて1箱5万円で遺族に売る商売をはじめたのです。それに対して遺族の人たちは激怒し、マスコミはその会社を徹底的に叩きました。それでその会社はつぶれてしまったのです。
極端な例ですが、これも、その会社の社長が儲けることだけ考えて、正しい経営理念を持ち得なかったか、守り抜かなかったところに原因があると考えられます。
会社の「使命」を考える
松下幸之助が経営理念を確立したときのいきさつは次のようでした。
昭和4年(1929年)の未曾有の不況を乗り切ってから3年、松下電器は順調な歩みを見せていました。
しかし、松下はこうした伸展を喜びつつも、商売に何か物足りなさ、空虚さを感じていました。自分のところが順調にいけば近所の同業者がうまくいかないといったことが起こってきて、〝このような商売を続けていっていいのだろうか〟〝商売とはなんなのだろうか〟と悩み続けていたのです。
そんなある日、知人のすすめで、ある宗教団体の本部を見学する機会を得ました。行ってみて驚きました。本殿の大きさ、用材のすばらしさ、普請の見事さ、それに塵ひとつ落ちていない清浄な雰囲気。
教祖殿は建築の真っ最中でありましたが、現場で作業している人たちは皆、奉仕の信者で、生き生きと喜びにあふれていたのです。
帰りの電車の中で、その日に見た光景が次々に浮かんできます。夜、床についてもその日の興奮はさめず、なかなか寝つかれませんでした。
〝なんという繁栄ぶりか、なんと立派な経営か。不景気で倒産が出たり、金儲けだと軽蔑されたりするわれわれの業界とは大変な違いではないか。どこが違うのだろう。宗教の仕事とはいったいなんだろう〟
宗教と事業に思いをめぐらし、いろいろ考えた末に、ハッと気がついたのです。これだと悟ったのです。
それは宗教には人間を救うという大きな使命感があるのに、商売には確固とした使命感がないことです。
宗教は悩める人を救うという「聖なる事業」かもしれない。しかし、本当はわれわれの仕事もまた、人間生活の維持向上に必要な物資を生産し、この世から貧をなくす「聖なる事業」ではないか。われわれ産業人も自分がやっていることの究極の意義をしっかりと自覚しなければならない。
こうして松下幸之助は、全店員を大阪中央電気倶楽部に集め、松下電器の真の使命を明らかにしました。そのときから松下電器の発展はさらに力強いものとなったのです。
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