本記事は、江口克彦氏の著書『こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助のリーダー学』(アスコム)の中から一部を抜粋・編集しています
100伝えるには、1000の思いをもって伝える
意思を伝達する原則の1番目は、「100伝えるには1000の思いで伝える」ことです。自分の意思というのは、伝わって末端に行くほど小さいものになっていきます。よく知られている心理学の実験があります。
10人の人を並べて最初の人に1枚の絵を見せ記憶してもらいます。そして、その人がどのような絵なのかを次の人に伝えていきます。次の人がまたその次の人へというように、次から次へと伝えていきます。そうすると10人目の人が話すときには、ずいぶん単純な絵に変わっている、というものです。
話の伝わり方も同じです。社員一人ひとりに100のものを伝えようと思えば、リーダーは1000の思いを持たなければなりません。そうでなければどんどん減って、100は結局ゼロになってしまいます。だから、自分自身の気持ちをよほど盛りあげていかなければならないということです。
ベートーベンの言葉に「心より出づ、願わくば再び心に至らんことを」というのがあります。真に心から出たものでなければ人の心にしみわたっていかないということなのでしょう。
経営理念にしてもビジョンにしても、リーダーの心から出たものでなければ説得力を持ち得ません。だから、それらが、みずからの信念にまで高まっているかどうか、社員になんとしても話さなければならないという、たぎるばかりの情熱にまで高まっているかどうか、ということが、やはりまず第一に大切だと思います。
くり返し、くり返し話をする
意思を伝達する原則の2番目は、「くり返し、くり返し訴え、話をしていく」ということです。私たちはともすると、〝前に一度言ったからもういいだろう、分かってくれているだろう〟と考えがちですが、自分の意思を1回で伝えることができると思うのは、人間としてきわめて傲慢なことだと思います。
部下に自分の意思を伝えていくこと、あるいは部下を指導するということは、夏の芝生の雑草取りのようなものかもしれません。芝生の雑草は、取ればまたすぐ生えてきて、一度取ればもう生えてこないというものではありません。だから、3日に1回、1週間に1回、雑草を取っていかなければなりません。
自分の意思を伝えるのも同じことで、根気のいる仕事ではありますが、その根気がなければリーダーの思いは社内、部内に浸透せず、人も育っていかないということになるのではないでしょうか。
松下幸之助は、昭和8年(1933年)から朝会、夕会を設け、そこで数年間ほとんど毎日のように話をしていました。
例えば、昭和17年(1942年)、松下電器の分社、満洲無線工業株式会社の社長経営方針の中で、松下は幹部社員への要望として次のような一項目を入れています。
経営者タルモノハ部下ヲシテ「今指導者ハ何ヲ考へテ居ルノテアラウカ」トノ如キ不安ヲ寸毫モ懐カシメサルコト 自己ノ理想 希望 要求等ハ常ニ部下ニ繰リ返シ繰リ返シ(傍点筆者)話シ置キ部下ヲシテ其レヲ克ク認識セシメ置カレタキコト
当時の松下電器の社員は、きっと、会社の方針をよく認識して仕事に当たっていたに違いありません。そういうところから人が育っていったのだと思います。
誤解が生じない話し方をする
意思を伝達する原則の3番目は、「分かりやすく、誤解が生じないように工夫する」ということです。そのためには、相手の理解レベルに合わせる、例を入れる、確認するなどが必要です。
また、伝えるだけではなくて、なぜこういうことが大事なのかという「なぜ」という理由を説明することが重要です。
「挨拶をしなさい」「伝票は早く回しなさい」というだけではいけません。「なぜ挨拶をしなければならないのか」「なぜ伝票を早く回さなければならないのか」をリーダーは、同時に十分説明しておく必要があります。
もし、そのことを自明の理としておろそかにすれば、何を言われているか分からないという若い人が必ず出てきます。何を言われているのか分からなければ、言われていないのと同じことになります。
「正確に伝わらないものだ」を前提に話をする
経営理念やビジョンは社員に浸透してこそ、それが行動指針となり、会社に人が育つ風土も生まれます。しかし、理念やビジョンに限らず、自分の思いを伝えることはなかなか難しく、〝自分が言いたかったことが正確に伝わらない〟という経験は誰でもが持っていると思います。その理由はいろいろあるでしょう。
まず、レベルや立場の違いです。体験の豊富さのレベル、知識の高さのレベルが違えば思いは伝わりにくいものです。人生経験豊富な大人が小学生に高尚な人生論を説いても小学生には分からないだろうし、ノーベル賞を受賞した科学者が私たち素人に専門の話をしてくれたとしても、私たちには分からないでしょう。
昔の狂歌に、「手を打てば、下女は茶を汲み、鳥は立ち、魚はよりくる猿沢の池」というのがあります。奈良にある猿沢の池のほとりで手を叩けば、近くのお茶屋の女は、自分が呼ばれたのだと思ってお茶を汲んで持ってきた。池の鯉は、餌がもらえるのではないかと寄ってきた。鳥は、追い立てられるのではないかとバタバタと逃げていった、という意味です。同じ手を叩く音を聞いても、それぞれの立場によって解釈の仕方が違うということです。
また、相手との会話、コミュニケーションでも、自分の記憶が定かでないために言い間違いをすることもあれば、相手が聞き間違うということも多く、聞き間違う理由も発音の仕方、言葉足らず、言い回し、ニュアンスなどさまざまです。
もっと決定的なものに、感覚の違いということもあります。例えば「好きだ」という言葉ひとつとっても、相手がそれをどのように受け取っているか分からないのです。そうした微妙なズレは覚悟しなければなりません。
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