ウォルト・ディズニー(ウォルト・ディズニー・カンパニー創業者)

ウォルトは数々の映画を世に送り出してきたが、芸術家ではない。あるとき、家で娘のダイアンに新しいディズニー映画を観せたところ、「平凡でつまらないわ!」と言った。ウォルトは、「そうかもしれんな。でも、みんながどうして平凡が好きなのか、きっと、何か理由があるんだよ」と答えた。

陳腐だろうと月並みだろうと関係ない。大衆が喜んでくれることだけが、ウォルトにとって重要だったのだ。「ずっと固く信じてきたことがある。それは、一般大衆を信頼していくってこと。大衆はずっと僕の味方だった。ミッキーマウスを真っ先に認めてくれたのは評論家でも興行主でもなく、大衆だった」と語っている。

ディズニーランドをオープンさせたのも、大衆に喜んでもらうためだ。「大衆が何を求めているのかについての僕の理解が深まるにつれて、パークももっと素晴らしいものになる。こういうことは映画じゃできない。作ったらそれでおしまいだから」。

ディズニーランドができると、ウォルトはたいてい毎週土曜日に園内を巡回し、従業員の仕事ぶりをチェックした。ある日、「ジャングル・クルーズ」のボートに乗ると、1周4分半で戻ってきた。監督責任者に聞くと、本来は1周7分だという。ウォルトは「君は映画館に行って真ん中の部分が抜けた映画を観せられたら、どう思う?」と監督責任者に問いただしてから一緒にボートに乗り、スピードを上げる場所や遅くする場所を指示した。

それから1週間、ジャングル・クルーズの水先案内人たちは、決められた時間を守れるよう、何度もストップウォッチでテストされた。3週間後、再びやってきたウォルトは1周ごとに水先案内人を変えながら4周し、ようやく親指を上げて「OK」のサインを出したという。

今でも人気が衰える気配がないディズニーランドだが、ディズニー社は初めから乗り気だったわけではない。多額の負債を抱え、第二次大戦後、映画事業もうまくいっていなかったので、ウォルトの兄で共同経営者のロイ・O・ディズニーをはじめ、経営陣は反対していたのだ。

そこでウォルトは、自分の生命保険を担保に借入れをしたり、別荘を売却したりして資金を作り、また、個人的な企業組織としてWEDエンタープライズを設立して、いわば勝手に事を進めた。そこまでして実現したかった、ウォルトにとってもまさに「夢の国」だったのだ。

《参考文献》ボブ・トマス(玉置悦子・能登路雅子共訳)『ウォルト・ディズニー』講談社