料理の生命線といえば「食材」。とりわけ、味を“売り”にする高級レストラン業態では、いい食材を安定的に仕入れられるかどうかが店舗運営の大切な鍵となる。ときには「思ったような食材が手に入らなかった」「質の良くない食材が送られてきた」と頭を抱え、仕入先と厳しい交渉をした経験がある料理人もいるだろう。
こうした悩みと無縁なのが、門前仲町にあるイタリアンレストラン『パッソ ア パッソ』だ。ジビエ料理ではトップクラスと業界で評される有馬邦明シェフのもとには、日本全国から、シェフのお眼鏡にかなった旬の食材が届く。しかも「ぜひ、有馬シェフに使ってほしい」と言う生産者も多数いるという。
有馬シェフは、どのようにして生産者からの信頼を得て、納得のいく食材を入手しているのだろうか? 「ジビエの魔術師」「肉の匠」と囁かれ、食通を魅了するだけでなく、料理専門誌の食材企画にも引っ張りだこ。さらには県の水産課や農政課などから産地の視察も依頼され、日本全国を飛び回っている有馬シェフの、これまでの道のりと仕事の流儀をうかがった。
「気持ちのいい仕事をする人と取り引きしたい」
「うちは、仕入れた食材に文句を言って、返すことはまずありません」と語る有馬シェフ。よく通る声と、快活な話しぶりにその人柄が垣間見える。『パッソ ア パッソ』に届く食材は、すべて有馬シェフが実際に訪れ直接話した生産者から届くものだ。ジビエだけではなく、米、魚、野菜なども同じだ。
「まず、これは僕の主観も多分に入ってくるんですが、“気持ちがいい仕事”をする生産者とウチは取り引きをしています。例えばウチに鴨が届いたとする。それはきれいに新聞紙で包まれ、まるで安らかに眠っているような状態で届きます。そういう食材は間違いなく美味しい。生産者が、自分の鴨がどんなに美しい生き物で、どんなに素晴らしい食材だと思っているのかがそこに表れている。そんな思いのこもった食材は、必ずその食材の持つポテンシャルを最大に引き出したいと思い、ベストを尽くします。これが僕の料理人としての仕事です」
どんな食材でも扱える料理人を目指して
『パッソ ア パッソ』のオープンは2002年。当時は今のようなディナーレストランではなく、トラットリア(定食屋)としてスタートを切り、なかなか繁盛していたそうだ。そんな時、ひとつのきっかけが訪れた。
「ある時、常連客に『大切な会食があるから一人1万円のコースを作ってくれないか?』と相談されたんです。でも、“めったに使わない高級食材をその時だけ使っても、ベストな料理は作れないんじゃないか?”と考えたんです。それがあって、“どんな食材でも扱える料理人になりたい”と思うようになり、まずは食材を知るために産地へ足を運んで勉強させてもらおうとしたんです」
そうして、初めて出向いたのが米農家だった。しかし、そこで出会った米農家の仕事の過酷さは想像以上だったという。
「80歳になるお年寄りが、娘さん……と言っても僕の母親ぐらいの年齢だったでしょうか? たった2人で、そりゃあもう大変な仕事をやっているわけですよ。こうして作られたものをいただいているんだ、と思うと純粋に頭が下がりますよね。産地にちょっと足を運んで『わかった気』になるのだけはやめよう、やるからには徹底的にやって、食材の知識を一つでも多く持ち帰り、料理にちゃんと活かそうと思いました。田植えと稲刈りの時期が最も人出が必要なので、毎年、その時期に勉強させてもらう代わりに手伝いに行っています。機械が入れない場所の田植えを延々とやっていると、腰がバッキバキになりますよ(笑)」
この活動は今年で17年目になるというが、毎年得るものがあるという。その他にも、休みの日にはできるだけ生産地を巡るようにしているという有馬シェフ。食材について勉強するということは、もはや人生の一部となっているようで「必要なことをやっているだけ」とあっけらかんと語ってくれた。