6店舗に拡大も、ことぶき食品に忍び寄る流通革命、存亡の危機に
端氏が療養生活を送っている間にも「ことぶき食品」は順調に成長を続けていた。1963年、2号店を西武池袋線沿線の東伏見の団地の近くにある商店街に出す。2号店は竟氏が店長として運営に当たった。1964年、西武池袋線秋津駅近くに3号店(四男の横川紀夫氏が店長)を出し、1965年に西武池袋線清瀬駅近くに4号店。ここは諏訪精工舎を退職した端氏が店長となった。
この時期になると社員数は10人を超え、新卒の高校生も採用するようになっていた。そのため端氏は4号店の店長から身を引き、採用などバックオフィスに専念する。諏訪精工舎の総務で部下10人を使っていた同氏には、得意なフィールドである。さらにことぶき食品は店舗を増やし、西荻窪店、国分寺店の2店のセルフサービス店をオープンさせ、全6店舗となった。1965年以降、年商は3億円に達した。
しかし、時代の波が小さな食料品店を飲み込んでいく。1968年頃になると売り上げが頭打ちになり、ジリ貧の状況に追い込まれた。原因は大型のスーパーマーケットによる出店攻勢が始まったことである。「流通革命」という言葉がメディアなどで取り上げられるようになり、1960年代後半から続々と大型スーパーが出店するようになった。複雑な流通経路を簡略化し、大量生産・大量消費の時代に対応、豊富な品揃えに加え、価格競争で圧倒的なパワーを持つ大型量販店が小規模な小売店を淘汰していく。
商品選びはセルフサービス、大量消費の象徴のスーパーマーケットについて、端氏は当初、顧客に近づくことのない不親切な商売と軽視していた。ところが徐々に客はスーパーマーケットに流れていくことを実感させられる。
「(スーパーマーケットの)お客さんが増えているんです。しかも、あろうことか、ウチの最も得意の常連のお客さんが行っているんですよ。店に見にいきますとね、僕等を見ると、なんか恥ずかしそうな顔をして、向こうにいっちゃうわけ。それで、何を買っているのかというと、ウチで買っているのと同じものを全部買っているんですよ」。
そして、最後は完全に白旗である。
「西友のセールは木曜日って決まっている。木曜日になりますと、もう恐怖の紙バクダンが降ってくるような感じがするんです。ネスカフェなんぼ、マヨネーズなんぼっていうとね、ウチで買える値段よりもはるかに安い。どうにもならない」(以上、すかいらーくの遺伝子を探る)。
「ことぶき食品」は21世紀の今でも通用するサービスで急成長したと冒頭に記した。それは間違いではない。しかし、流通革命による圧倒的な価格差は、そうしたサービスの違いを凌駕してしまう。結局、顧客に近づくサービスは、さらなる流通革命によって流通経路が簡素化され、大型店と小型店の価格差がない状況が誕生した後、いかに商品やサービスに付加価値を付けられるかという部分での勝負ということになるのだろう。 その意味では「ことぶき食品」は2つ先の時代をいってしまい、1つ先を行く相手に敗れたと言えそうである。別の見方、言い方をすれば、抜群の相撲のテクニックを持っていても、それが小学生なら、ただ押すしか能が無い関取に張り手一発で倒されるということである。
こうして順調に6店舗まで増えたことぶき食品だが、大手スーパーマーケットの進出の前に存亡の危機に立たされる。(提供:Foodist Media)
執筆者:松田 隆