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すかいらーくを創業した四兄弟の長兄・横川端氏(右)と、息子であり文教大学国際学部国際観光学科教授を務める横川潤氏(左)(画像=Foodist Media)

日本を代表する外食企業である「すかいらーく」は長野県出身の4人の兄弟、横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫の4氏によって創業された。前身の「ことぶき食品」の設立から、1970年のすかいらーく1号店の誕生まで、横川端氏を中心とした兄弟の知られざる苦労、足跡を追う。

横川家四兄弟の夢の出発点とも言える「ことぶき食品」の開店は1962年4月4日(水)であった。場所は東京都北多摩郡保谷町(現西東京市)のひばりが丘団地前。長男の横川端(ただし)氏は、当時勤めていた諏訪精工舎で有給休暇を取り前日3日から上京、開店に備えた。

当日は三男の横川竟(きわむ)氏が午前3時に起きて自動車で築地市場に向かい、あじや、さんまの開き、干物、塩鮭、しらす干し、かまぼこ、佃煮などを買い込み、兄弟で店頭に並べる。店のイメージアップのため全員真っ白なユニフォームを着用と、準備は万端だった。

四兄弟の夢、ことぶき食品開店。画期的なコンセプトで人気店に

当時は午前8時頃にシャッターを開けると徐々に客が集まり始め、買い入れたばかりの食品を並べる間もないほどの盛況になった。納品に来た卵、納豆の業者も納めたばかりの商品の売り子をするほどの賑わい。「商品はあらかたなくなり、棚やケースは空っぽ。昼飯どころか水一杯も口にできずに、十二時間ほども動き回って、初日が終わったのである」(エッセイで綴るわが不思議人生:横川端、文芸春秋社・私家版)。損益分岐点は1日5万5000円の売り上げだったが、端氏の記憶では15万円から20万円売ったという。その後は開店時の爆発的な売り上げは落ち着いたものの常連客も付き、経営は軌道に乗った。

こうした成功は、開店前に決めた店のコンセプトを忠実に履行したからであろう。四兄弟が何度も議論を重ねて作ったものが以下である。

1、スローガンは「いつも新鮮、いつも親切」
2、そのために毎日築地に仕入れに行く
3、お客さんがほしいというものは必ず揃える
4、量り売りの商品はどんなに少量でもお応えする
5、食料品店は暗い、汚いというお客さんのイメージを払拭する
6、店が暇な時間には、お客さんから要望があれば配達もする
7、夜遅くお客さんが途絶えるまで店を開けておく

(エッセイで綴るわが不思議人生)

なかでも画期的だったのが「4」であり、それを象徴するヒット商品がセロハンの小袋で包んだ一袋約10gで10円のしらす干し。当時の団地には乳幼児を持つ家庭が多く「育ち盛りの子供にカルシウムを」という売り文句に買い手が殺到し「飛ぶように売れた」という。

「3」「7」は現代のコンビニエンスストアに通じるものがある。「4」は現代のスーパーでは野菜を一人用に小さく分けて売るなどの方法で行われている。「5」は具体的には白いユニフォーム着用で清潔感、統一感を表したが、これも現代のファストフードでは当たり前になっている。「6」の現代版はファストフード、ファミリーレストランでのケータリングサービスと言えるだろう。

こうした21世紀に通ずるビジネススタイルを、設立したばかりの「ことぶき食品」は実行していたのである。「顧客のニーズに応える」、「顧客に近づく」という発想が当時の小売業の人たちには希薄だったのかもしれない。後に端氏は「それ(顧客に近づく事)しかないと思えたのは、素人だったからだと思いますね。自分が商売の水に浸っていたら、その発想はないですね」(すかいらーくの遺伝子を探る)と語っている。

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1962年、ひばりが丘団地に「ことぶき食品」をオープン。写真は「ことぶき食品」があった場所の現在の様子(画像=Foodist Media)

横川端氏倒れる、諏訪精工舎を辞めて「ことぶき食品」に完全に合流

当時、端氏は月に1度程度、週末に長野から東京へ出かけて会議に参加し、店も手伝うという生活。30歳の若さとはいえ、こうした無理が徐々に疲労として蓄積されていくのは容易に想像がついた。1963年、ついに病に倒れる。きっかけとなったのは勤務していた諏訪精工舎の創業者である山崎久夫氏の社葬であった。

山崎氏は現在のセイコーエプソンの母体となった大和工業を創業。クオーツ腕時計の開発に心血を注ぎ、セイコーエプソンの基礎を築いた立志伝中の人物である。その生涯はNHKプロジェクトX「逆転 田舎工場 世界を制す~クオーツ・革命の腕時計~」(2001年9月4日放送)でも紹介された。その山崎氏の社葬のため、端氏は総務部員として最前線で働いていたのである。セイコーエプソンの創業者の葬儀のため、後のすかいらーくの創業者が寝る時間もないほどに働いていたというのは、偶然とはいえ、時代の移り変わりを象徴する出来事と言えよう。

連日のように徹夜が続き体力の限界を超えていた端氏は、葬儀が終わると過労で倒れてしまう。さらにバセドウ病に罹患。薬による治療では治らず首の周辺を手術し会社は長期休養、信州大学付属病院への入院を含め1年間の療養生活を余儀なくされた。

この1年の間、ベッドの上で諏訪精工舎を辞めて、ことぶき食品に身を投じることを考え続けたという。弟たちに相談し、また夫人にも話した。1962年に長男の潤氏(現文教大学国際学部国際観光学科教授)が誕生しており、地域の名門企業である諏訪精工舎を辞めて、設立したばかりの会社に行くことのリスクは計り知れない。話を聞いた会社の上司は病室にやってきて「会社にいれば活躍の場はある」と慰留した。だが、気持ちは徐々に退社の方向へ向かう。

それは端氏が会社での自らの将来に不安を感じていたことも遠因になっている。「私を現場から総務に異動させ、仕事をバックアップしてくれた先輩が私の入院中に病気で亡くなってしまいました。そして私は病気で1年間休んでしまい、これからどうしようかと。会社を辞めなければ定年までいられます。しかし定年までいても、出世はできません。1年間休んで会社に迷惑をかけ、普通の会社だとこれ以上(の地位)は難しいと、その意味で限界を感じていました」。

そうしたサラリーマンとしての事情に加え、自身が東京に足を運び兄弟と話す中で(やるなら4人結束してやろう)という決意が固まっていったという。「4人集まったことで『それいけ、やれいけ』になったと思います。そして一つの区切りとして、不確実でありますが『エイヤ』と、飛び込んでみようかと思ったわけです」。

こうして1964年、端氏は16年間勤務した諏訪精工舎を離れ、第二の人生に向けて漕ぎ出す。同年春、五輪開催を控える東京へと家族で移った。

32歳の決断。55歳定年の時代には遅すぎるスタートと言えるかもしれない。事実、端氏は「あと5年遅かったら『別に私が行かなくても、彼らがやればいい』とか『もう突っ走ることはやめよう』と思って、落ち着いてしまっていた可能性はあります」と振り返る。

「私たちの時代は就職というより“就社”の時代で、今のようなキャリアアップのために簡単に転職できる時代ではありませんでした。転職における決心、覚悟は今と全く違うと思います。家族を連れて店の2階に転がり込んで『これでうまくいかなかったら、もっとひどい状況になってしまう』というヒヤヒヤした思いは胸の中にありました。現代は転職しやすい時代です。それはいいことであると同時に怖いことでもあります。行き先は常に道が拓けていると思ってはいけません。ただし、道が塞がっていると思ったら行くことはできませんし、道を拓こうと思わない限り道は拓けてこないのは、昔も今も同じです」。