はじめに
「AI(人工知能)は雇用を奪う」とのAI脅威論は根強い。一方、筆者は、「AIを活用した未来社会がどのようなものになるかを決めるのは、AIではなく、それを開発・進化させる科学者・開発者やそれをツールとして社会に実装・利活用する経営者など、人間自身であるはずだ。AIを単なる人員削減のための道具ではなく、人間と共生する良きパートナーと位置付けるべく、ビッグデータから人間では気付けない関係性やわずかな予兆を捉えるなど、AIにしか出来ない役割や、画像認識など既にAIが人間の能力を上回っている機能をAIに担わせるように、人間自身が強い意思を持って導くことが重要である」と考えている(1)。AIに関わる科学者・開発者や経営者には、AIの開発・実装において、このような理想的なAIの在り方を目指した、明確な「哲学」や「原理原則」を強く持つことが求められるのではないだろうか(2)。
このような考え方を実践していく上で、米メジャーリーグ(MLB)で今起きている「データ革命」に学ぶべきことが多々あるように思われる。MLBでは、この4~5年でグラウンドでのビッグデータの収集・分析が進み、これをうまくプレーに取り入れた選手やチームが躍動し、科学の力がベースボールを新たな時代へと導いた、と言われている。
そこで本稿では、MLBのデータ革命を概観した上で、そこから得られる、AI・IoT(モノのインターネット)の産業・社会利用へのインプリケーションについて、産業界の視点から考えてみたい。
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(1)AIの利活用の在り方に関わる筆者のこのような考え方については、拙稿「製造業を支える高度部材産業の国際競争力強化に向けて(後編)」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2017年3月31日、同「AIの産業・社会利用に向けて」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2018年3月29日、同「AI・IoTの利活用の在り方」ニッセイ基礎研究所『基礎研レポート』2019年3月29日を参照されたい。
(2)現在実用化されているAIは、特定のタスクしかこなせない「特化型AI」である一方、人間のように多様なタスクをこなせる「汎用AI」は、現在のテクノロジーの延長では実現しないとされる。今は多くのブレークスルーがなければ実現しない汎用AIについても、科学技術力の維持・強化のために、最先端のAI研究分野として一定の研究者が研究に取り組み続けることが勿論重要である、と筆者は考えている。
米メジャーリーグの「データ革命」の概要
●IoTに基づくデータ革命は選手の意識を変えた
(1) スタットキャストの導入を契機としたデータ革命
MLBのデジタルサービス部門であるMLB Advanced Media(MLBAM)がAmazon Web Services(AWS)(3)を用いて作成した、プレイヤートラッキングシステム「Statcast(スタットキャスト)」が、2014年に試験導入された後、2015年シーズンにMLBのすべての本拠地球場30か所に導入され本番環境で作動しており、これを契機にMLBにデータ革命が起こった。
スタットキャストのワークフローは、球場内に設置された2つのデータ収集システムから始まる。すなわち、1)ミサイル追尾用に軍事用として開発されたドップラーレーダーシステムが、ホームベースの後ろに位置してボールを追尾し、ボールの位置を毎秒2,000回サンプリングするとともに、2)通常3塁ベースラインの上に位置する立体撮像装置(光学高精細カメラ)が、毎秒30回選手の動きをサンプリングする(4)。このような最新のテクノロジーにより、プレーに関するビッグデータが収集され、瞬時に80項目以上のデータを表示できるという。このようにスタットキャストは、クラウドベースの先端IoTシステム、あるいはビッグデータソリューションだと言える。
ただし、スタットキャストのアーキテクチャ(5)を見ると、大量のデータをすべて即時にクラウド側に送りクラウド上ですべての計算処理を実行するのではなく、MLBAM側のデバイス端末(ここでは上記のデータ収集システム)の近くでデータ処理することで、上位のクラウドシステムへの負荷や通信遅延を抑制する「エッジコンピューティング」が併用されているように見える。すなわち、クラウドコンピューティングとエッジコンピューティングの役割分担がなされているとみられる。ただし、エッジコンピューティング部分も自社所有ITではなく、AWSのITシステム(仮想サーバであるAmazon Elastic Compute Cloud (Amazon EC2)など)が採用されている。
MLBAMでは、スタットキャストを構築する上で、オンプレミス(自社によるITインフラ(設備・ソフトウェア)の所有・運用)のITソリューションも検討していたが、最終的にはAWSを導入することに決めたという。1)全米各地の野球場から素早くデータを取り込みリアルタイムで分析し結果を数秒で生成し、その生成された膨大なデータを保持するために十分なコンピューティングパワーや拡張性が必要とされたこと(MLBの1シーズンでのデータ生成量は合計17ペタバイト)、2)ITシステムを使用しないオフシーズンには終了するプラットフォームが必要とされたこと(オンプレミスの場合、半年がアイドル状態となってしまうこと)、3)AWSは全米をカバーしているため、データを試合場所からクラウドへ、そして スタットキャストの構築に使用した複数のサービスへと送信するのに、合理的な往復時間で行えることから、クラウドをベースとしたAWSが選択されたという(6)。
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(3)AWSは、米アマゾン・ドット・コムにより提供されている、クラウドコンピューティングを中心としたITサービス事業。アマゾン社内のビジネス課題を解決するために生まれたITインフラのノウハウをもとに、2006 年に企業向けITインフラサービスの提供を開始した。
(4)データは、Amazon AWSホームページ「AWS導入事例: MLB Advanced Media」より引用。
(5)Amazon AWSホームページ「AWS導入事例: MLB Advanced Media」に掲載されている図表「AWS を利用した Statcast のアーキテクチャ」。
(6)Amazon AWSホームページ「AWS導入事例: MLB Advanced Media」を基に記述した。MLBでは、平均7テラバイトのデータがゲームごとに生成され、1シーズンで2,430 試合が行われるため、毎シーズン17ペタバイトのデータが生成されることになるという。ペタバイト(PB)は250 ≒1,125兆バイトであり、1,024テラバイト(TB)。
(2) 選手の意識改革につながったデータ革命
スタットキャスト導入を契機にデータを分析し、それを自分のプレーにいかに取り入れるか、を考えるようになった選手が増え、試合中にベンチの奥でタブレットなどでデータをチェックする機会も増えたといい、データ革命は明らかに選手の意識改革につながった。勿論データの利活用には、受け身の姿勢ではなく、個々の選手の創意工夫に加え、オフシーズンや日々のトレーニングにデータを取り入れ、実際のプレーで実践しようとする能動的な意識・努力が不可欠であることは言うまでもない。
2018年シーズンにMLBに渡り見事にアメリカンリーグ新人王に輝いた、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手は、プロ野球・日本ハム時代と比べたMLBでのデータ利活用の取り組みについて、「いままでは、あまり考えるタイプではなかった。自分がしっかりやってきたものを出せば、負けないと思ってやってきたので。どちらかというと、身体的な部分で勝負してきたところが多いのかなと思っていた。(※MLBでは)やっぱり、それだけでは補えない部分があったりして、いっぱいデータがあるなかで、それを活用しない手はないなと思った」「日本にいた時より、打席の中でもマウンドでも、その外でも、やっぱり考える時間はすごく長いのではないかと思います」(7)と語っている。MLBで初めて経験した158キロのボールを投げる左ピッチャー、当たり前のように155キロ前後のボールを投げる先発ピッチャーたち、手元で微妙に変化して芯を外されるボールなど、これまで経験したことがない課題に対処し続けることが必要だったという。大谷選手は、その重要な対処法の一つとして、日ハム時代にはやらなかったデータ利活用を取り入れたのだ。
今やMLBでは、データの持つ意味をしっかりと考え、それをうまく活用できる選手やチームが大きな成功を収める、と言っても過言ではない。
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(7)NHKホームページ「大谷翔平『大リーグ挑戦 1年目の姿』」『NHK SPORTS STORY』2018年10月17日より引用。(※ )は筆者による注記。
●フライボール革命~従来のセオリーを覆す打撃理論の台頭
(1) バレルゾーンの導出・発見
データ分析を専門に行うアナリストにより、分析は日々進化し、新たな指標が次々と見つけ出されているという。その中でも象徴的な成果として「フライボール革命」が挙げられる。
MLBの公式アナリストが、打球の速度や角度、飛距離といったデータとヒットやホームランの関係性を分析した結果、バッターが好成績を残しているスイートスポットを発見し、この領域を「Barrel Zone(バレルゾーン)」と名付けた。打球の速度と角度で表されるバレルゾーンは、「時速158キロ以上、角度30度前後」に集中しており、このゾーンに収まる打球は、高い確率でホームランになるのだという(2017年シーズンの平均値では、時速140.5キロ、角度11.8度と、バレルゾーンを外れている)(8)。例えば、打球速度161キロで角度27度のバレルゾーンの打球は、52%がホームランとなる一方、同じ161キロでもバレルゾーンを外れる20度になると、3%しかホームランになっていない(9)。
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(8)NHKホームページ「メジャーリーグの『データ革命』とは?」『NHK SPORTS STORY』2018年2月28日より引用。フライボール革命やバレルゾーンに関わる説明やデータについては、同資料に拠っている。
(9)NHKホームページ「メジャーリーグの『データ革命』とは?」『NHK SPORTS STORY』2018年2月28日より引用。
(2) バッターの潜在能力を引き出し能力を拡張させたフライボール革命
データに裏付けられた新しい指標であるバレルゾーンを実践するためには、バッターはボールの下を打ってフライを上げなければならない。多くのバッターがバレルゾーンを目指し、フライを上げようと取り組んでいるため、MLBでは「フライボール革命」が起こっている、と言われる。
これまでの打撃理論では、ボールを上から叩いてゴロを打つことがセオリーだったが、打球方向に関するデータ分析の進展により効果的な守備シフトが普及し、ゴロで野手の間を抜くのが困難になったのだという。この守備シフトへの対抗策として台頭してきたのがフライボール革命だが、従来のセオリーを覆す真逆の打撃理論なのだ。
一方、投手側の視点でデータ分析を行うと、球種別の被本塁打率はカーブが最も低い(10)ことから、「フライボール革命に対抗するには、カーブが有効である」との対抗策が早くも出てきているという。さらに2018年シーズンには、フライを上げるアッパースイングでは対応しにくい、高めのフォーシーム(ストレート)が新たな対抗策として加わったという。しかし、2019年シーズンに入って、バッターが高めのフォーシームに対して、手を出さなくなったり、ボールをミートできるようになるなど、早くもバッター側で対応が取られている兆候がデータに表れてきており、例えばボストン・レッドソックスの投手陣は、さらにそれへの対抗策として、再びボールを高めから低めへ集めようとしているという(11)。
これらのことは、データ革命の下では、各選手・チームが互いに切磋琢磨してデータ分析を行い、それに基づいた対抗策を打ってくるため、バッター・投手・野手にとっての「最適解」も不変ではなく、変化し得ることを示唆している。
このように、フライボール革命を巡るバッターと投手の目まぐるしい攻防は、いたちごっこのように今も続いている。とは言え、2017年はフライボール革命がMLBで大きく花開いた年となった。シーズンのホームラン数は6,105本と、MLB史上初めて6,000本を超えた(図表1)。2000年に5,693本と前回のピークを付けて以降、低下傾向が続いていたが、2014年に4,186本とボトムを付けた後、スタットキャストが導入された2015年以降、急激に増加している。2018年は5,585本と、2017年対比▲8.5%減となったが、それでも歴代4位の記録であり高水準を維持している。
スタットキャスト導入以降、20本以上ホームランを打った打者は、57人から117人へと倍以上に増えているという(12)。すなわち、60人が新たにホームランバッターの仲間入りを果たしたのだ。また、2017年に52本のホームランを放ち、新人でアメリカンリーグのホームランキングに輝いた、ニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジ選手は、バレルゾーンの打球がMLBで最多だったという。
データに裏付けられたフライボール革命は、バッターの潜在能力を引き出し能力を拡張させた、と言っても過言ではないだろう。
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(10)データスタジアム社の調査によれば、ストライクゾーンでの成績は、カーブ1.3%、ツーシーム1.5%、フォーシーム1.6%、カットボール1.6%、スライダー1.7%、スプリット1.9%、チェンジアップ2.0%(NHKホームページ「メジャーリーグの『データ革命』とは?」『NHK SPORTS STORY』2018年2月28日より引用)。
(11)本記述は、NHK BS1『ワースポ×MLB』(2019年4月8日放送)に拠っている。
(12)NHKホームページ「メジャーリーグの『データ革命』とは?」『NHK SPORTS STORY』2018年2月28日より引用したため、2017年シーズンまでを反映したデータ。
●アストロズの徹底したデータ戦略
ヒューストン・アストロズは、時代の一歩先を行く徹底した「データ戦略」により、2017年にチーム史上初のワールドチャンピオンに輝いた。このデータ戦略を推進したのは、2011年オフにゼネラルマネージャー(GM)に就任した、ジェフ・ルーナウ氏だ。同氏はMBA(経営学修士)を持ち、マッキンゼー・アンド・カンパニーなどでのコンサルタント経験を持つ。
同氏は、当時弱小球団だったアストロズにデータ戦略を取り入れるために、まず数学者、物理学者、統計学者などデータを扱うプロフェッショナルを集めたという(13)。このデータ解析チームは、選手の最高のパフォーマンスを引き出すために、スタットキャストのデータだけでなく、独自に導入した大量のカメラやセンサーなども駆使して、選手の特徴・状態を把握しているという。そして、このモニタリングシステムをマイナーリーグにまで導入するという徹底ぶりだ。
アストロズは、チームを挙げて前述のフライボール革命を実践し、2017年MLBで得点は1位、ホームランは2位だった。フライボール革命は控え選手にまで浸透しており、11人の選手が2桁ホームランを記録したという。
ルーナウ氏は、このようにバッターにはフライボール革命を徹底的に浸透させた一方、投手陣にはフライボール革命を封じるための球種として最も有効とされるカーブの名手を揃えるとともに、カーブを多投させたという。さらに2017年シーズン途中に、MLB最強のフォーシームの使い手であるジャスティン・バーランダー投手をデトロイト・タイガースからトレードで獲得したが、これはカーブの投球に加え、高めのフォーシームの投球を重視・強化する戦略の一環であったとみられる。同投手は、2017年のワールドシリーズ初制覇に見事に貢献した。
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(13)アストロズのデータ戦略に関わる以下の記述は、NHKホームページ「メジャーリーグの『データ革命』とは?」『NHK SPORTS STORY』2018年2月28日に拠っている。