(本記事は、タイラー・コーエン氏(著)、池村千秋(訳)の著書『大分断──格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像』NTT出版の中から一部を抜粋・編集しています)

硬直化する政府予算

政府予算
(画像=underverse/Shutterstock.com)

「ストゥーリ・ローパー財政民主主義指数」というデータがある。これは、アメリカの連邦予算のうちどのくらいの割合が(自動的に決まるのではなく)その時点での民主主義のプロセスによって決まっているかという数字だ。

この指数をつくった一人であるC・ユージン・ストゥーリはこう説明している。「この指数で明らかにしたいのは、既存の恒久的な制度(国債の利払い費も含まれる)により、未来の予算のうちどれくらいの割合がすでに確定してしまっているかだ。ここでは、その制度がリベラルな政策か保守的な政策かを問わない」

この指数が浮き彫りにする現実は厳しい。1962年、連邦政府支出の約3分の2は財政民主主義の下で支出が決められていた。つまり、恒久的な制度の下であらかじめ支出が決まってはいなかったのだ。しかし、1960年代半ばになると、この割合が急激に低下しはじめ、1982年には30%を割り込んだ。

この数字が最も小さかったのは、大不況下の2009年。この年は、歳入のすべてを非裁量的支出に回しても、まだ予算が足りなかった。そこで、政府は借り入れを増やして埋め合わせざるをえなくなった。

財政民主主義指数は、2014年頃の時点で20%前後。いまのペースで高齢化が進めば、2022年までに10%を下回る。この状況から抜け出す道は、なかなか見えてこない。

それどころか、今後は状況がいっそう悪化する可能性が高い。今日は金利水準がきわめて低いが、金利がいまほど低くなければ、政府が裁量的支出に回せる金額はもっと少なかったはずだ。

金利が低いと国債の利払い費が少なくて済む。その点、行政管理予算局の信頼性がある予測によれば、将来の金利上昇の可能性を考慮に入れると、国債の利払い費が連邦予算に占める割合は、現在の6%から約13.5%まで上昇する見通しだという。

そうなれば、財政民主主義が損なわれる。現実問題として国債の利息を支払わないという選択肢は取れないので、ほかの用途に回す予算を減らす以外になくなるからだ。

この事態は、民主主義の産物という面もある。社会保障費が予算に占める割合が高まったのは、議員たちが有権者の意向に従った結果にほかならないからだ。

しかし、長い目で見ると、この状況には問題がある。財政民主主義が縮小すれば、社会が停止状態に陥り、未来に関する大胆な思考への投資が不足する。今後、世界は大きく変わるが、政府予算の使い道はおそらくあまり変わらないだろう。

そのような国で何が起きるか想像してみてほしい。もっとも、政府の行動は社会の選好を生む原因であるだけでなく、社会の選好が生む結果でもある。だから、社会の多くの要素が停止状態にあるなかで、政府が自動継続モードになるのは意外でない。

社会的な影響力が大きい人たちは概して、政府予算の柔軟性が乏しくなってもあまり困らないように見える。現状満足階級のなかでもとくに目覚ましい成功を収めている人たちは、自助により所得が増えているし、社会秩序も保たれているように感じている。

もちろん、現状に不満がないわけではないだろう。この人たちは、政府の裁量的支出の拡大を最も強く主張している層である場合も多い。それでも、切実な問題意識をいただいているようには見えない。この点が1960年代に過激なベトナム反戦運動を展開した人たちとの違いだ。

実際、いまのアメリカはおおむねうまくいっているように見える(少なくとも、2016年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプが大方の予想を覆して勝利を収めるまでは)。その結果として、予算の柔軟性が乏しい状況が続いてきた。現状を変える力より、現状を固定する力のほうが強く働いてきたのである。

問題は、このような状況が続けば、いずれは民主主義が適切に機能しなくなることだ。民主主義の重要性を訴える論者は、システムの柔軟性と問題修正メカニズムを民主主義の長所として強調する場合が多い。

民主主義の下では、政府が誤った政策を採用しても、次第に適切な政策に転換できると考えられている。政府は有権者の声に耳を傾けなくてはならず、有権者への説明責任を負うからだ。

このような主張は理にかなっている。イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルもこう述べていた。「アメリカ人はいつも正しい行動を取る。ただし、その前にほかのあらゆる行動を試す」

しかし、いまのアメリカで、この議論はどの程度成り立つのか?予算のかなりの割合が毎年機械的に継続されるようになり、アメリカは「ほかのあらゆる行動」を試す能力を失ってしまった。これでは「正しい行動」に行き着けない。

アメリカ社会が停止状態に陥り、柔軟性を喪失していることは、経済全体に占める連邦政府予算の割合にもあらわれている。1965〜2014年の平均を見ると、連邦政府の歳出がGDPに占める割合は20.1%、歳入がGDPに占める割合は17.4%だった。

それが2014年にはどうなったか?前者が20.3%、後者が17.5%だ。いずれも歴史的な平均値とほぼ変わらない。この割合を高いと考えるか低いと考えるかは別にして、値が長期にわたってほとんど変わっていないことは確かだ。

しかも、アメリカ人は、政府の予算のほとんどを、自分たちの安全を強化し、生活の予測可能性を高めるために使っている。一般のイメージでは、西ヨーロッパの国々が高度な福祉国家を築いているのに対し、アメリカは厳しい弱肉強食の社会を築いているとされる。

このような単純化した図式は、まったく事実と異なる。アメリカ政府が国民をリスクから守るために(少なくとも守ろうという意図で)費やしている金額は、ヨーロッパの国々と比べても多い。この状況は、今後も変わりそうにない。

国民一人当たりの金額で比べると、政府が国民の医療に費やしている金額は、フランスよりアメリカのほうが多い。アメリカで医療サービスを受けられない人がいるとか、患者の経済的負担が重すぎるといった批判は当然あるだろう。

しかし、アメリカ政府がフランス政府よりも国民の医療に深く関与していることは間違いなさそうだ。

政府が社会保障に直接支出している金額の対GDP比では、アメリカは先進国のなかでかなり下位に位置する。上位に名を連ねるのは、フランス、フィンランド、ベルギー、デンマークといった国々だ。これだけ見ると、アメリカを福祉国家の劣等生とみなす定説が正しいように思えるかもしれない。

しかし、いわゆる「租税支出」を考慮に入れると状況は一変する。租税支出とは、税制度を活用して、個人や企業の行動に影響を及ぼそうとする仕組みのことだ。そのなかには、慈善団体への寄付や、年金と医療保険への加入を促すための税優遇措置も含まれる。アメリカ政府は、このような間接的な介入を大々的におこなっている。

その結果、経済協力開発機構(OECD)によれば、国民一人当たりの数字で見ると、「アメリカ政府の直接的な社会保障支出は比較的少ないかもしれないが、社会保障のために支出している金額の総額は世界で2番目に多い」。

アメリカ政府は、国民が安全を感じられるように大きな努力を払っている。そのための制度に直接的に支出するより、税制措置を用いる場合が多いだけのことだ。

外国勢力による侵略やテロを防ぐための国防支出も、広い意味では人々の安全を高めることを目的とした支出とみなせる。これも加えれば、アメリカ政府が国民の安全のために費やしている金額はさらに膨れ上がる。

その金額は世界で最も多い。これは、国民一人当たりの金額を見ても言えることだ。

1990年代も、いまほどではないにせよ、連邦政府の予算は変化が乏しかった。それでも、当時は州政府や地方自治体が支出を大幅に増やしていたので、ローカルなレベルでは予算の柔軟性が確保されていた。

しかし近年は、医療費が増大してメディケア支出が増えた結果、多くの州政府は財政が苦しくなってきた。大勢の人間を刑務所に収監するためのコストも上昇している。学校教育への支出も有権者に強く支持されているし、そうでなかったとしても、この支出を打ち切ることは難しい。

こうした状況の下、州政府が新しい政策を試みるケースはめっきり減った。州レベルの予算論議で最も問われる問いは、「年金給付に関して現実離れした約束をしてしまったことに、どのように対処するか?」と「州立大学にどのくらい州の資金を投入すべきか?」のいずれか、もしくは両方だ。気が滅入る問いと言うほかない。

説明責任から逃げる議員たち

アメリカの政治家が説明責任から逃げ、議会の票決で明確に意思表示することを避けているのは、予算の使い道だけではない。政治の最も重要な役割である戦争と平和に関しても同様の現象が見られる。アメリカ議会は、国外での軍事行動に関して票決を避けたがる傾向があるのだ。

たとえば2011年、アメリカ政府はリビアに対する限定的な軍事行動に踏み切った。このとき、議会の正式な同意は得なかった。当時のオバマ大統領は議会指導部と協議し、与野党から十分な支持も得ていたが、議員たちは戦争への賛否を表明するという重荷を背負いたがらなかった。

イラク戦争の評判がきわめて悪かったからだ。軍事行動が裏目に出た場合に責任を回避できる余地を残したいと、議員たちは考えたのである。

この状況は、ベトナム戦争後の1970年代とはまるで違う。当時のアメリカ議会は、大統領が議会の明確な承認なしに戦争をおこなえる権限を制約した。それと異なり、今日の議会は、合衆国憲法と民主主義の原則によって課された責務から逃れようとしている。

たいていの場合は、公式の記録に残る行動を取るより、「創造的な曖昧さ」を発揮するほうがお手軽だ。しかし、その結果として政治の説明責任が失われれば、政策が失敗に終わっても政治の状況が大きく変わらなくなる。

この状況を問題と考え、議会でもっと徹底的に議論すべきだと主張する国民もいるが、あくまでも少数派だ。この点でも、人々は現状に満足しているのである。いまの生活がそれほど悪くないと感じていて、現在の政治のあり方をさほど深刻な問題と思っていないので、その状況をただちに解決しなくても支障がないと考えている。

アメリカの社会は、これに限らず、いますぐに解決しなくても構わない課題を次々と先送りし、問題を積み上げている。このままいけば、いずれは問題解決能力を完全に失ってしまうだろう。現在だけでなく、近い未来や遠い未来にも問題を解決できなくなる。

リビアのほかに、シリアとイラクでも同様のパターンが繰り返された。議会が承認したかが明確でなく、どのような行動を取るのかも曖昧なまま、軍事行動が始まったのである。パキスタンやイエメンでドローン攻撃が何回おこなわれれば、議会による正式な宣戦布告の決議が必要とみなされるのか?

おそらく、この問いの答えを知る機会は訪れず、宣戦布告なしでドローン攻撃が続くだろう。近年は党派間の分断が原因で政治が膠着状態に陥るケースも多いが、この場合はそれが原因ではない。そもそも、国民が明確な宣戦布告を求めていないように見える。

予算の硬直化と同じように、この現象も民主的なプロセスを経て生まれている。有権者がその気になれば、票決から逃げない議員を選ぶこともできる。しかし、有権者はそのような選択をしない。

選挙では現職議員の再選率がきわめて高い。現職議員の再選率はしばしば90%を超す。議会に対する有権者の支持率は目を覆うほど低いのに、選挙では現職が圧倒的に強い。

これは民主主義のプロセスが生んだ結果ではあるが、それにより、ある面ではきわめて非民主的な状況が生まれている。議員たちが政治的決定に対する説明責任を十分に問われなくなったのだ。

議会に対する有権者の支持率が7%にとどまっているのは、この点が原因なのかもしれない。議会に対する支持は、今後さらに低下する可能性もある。

有権者は、議会が責任回避を脱却することを漠然とは望んでいるし、現状への不満を口にすることも多い。しかし、現状満足階級は個別の政策について考えるとき、議会がこのような状態に陥っていることをあまり深刻と考えていないようだ。その結果、ほとんどの有権者が現状を好ましく思っていないのに、議員たちの行動は変わらない。

最近の選挙は往々にして、「誰に国を統治させるべきか」よりも、「誰を批判の対象にすべきか」が焦点になっているように思える。新しい政権が誕生してもすぐに支持を失い、議論の中心はたちまち、(誰を政権に就けるべきかではなく)誰を引きずり下ろすべきかに移る。

有権者は、選挙で政治家と長期の契約を結ぶという発想が薄らぎ、中古車を購入する店を選ぶような感覚で選挙に臨むようになった。いま商談している中古車販売店を飛び出して別の店に行かないのは、どの店も大して変わらないと思っているからだ。

こうして、有権者は同じ政党や候補者に投票し続ける。その結果、アメリカでは選挙の投票先に関しても流動性が低下している。

選挙のあり方が大きく変わり、政治学の考え方も変わりはじめた。昔の政治学では、「ダウンズ・モデル」(「中位投票者定理」とも呼ばれる)が広く支持されていた。この理論によれば、選挙では左右の二大政党が中道派の有権者の支持を獲得するためにしのぎを削ると考えられる。

昔のアメリカの政治状況は、この理論で的確に描写できたかもしれない。政治学者のアンソニー・ダウンズがこの理論を最初に発表したのは、1950年代半ばだった。

今日、政治の現実はダウンズの理論から乖離しはじめているように見える。いまも昔も、政府が推進する中核的な政策は、ほとんどの有権者から支持されるような内容のものだ。

しかし、それ以外の政策は、さまざまな利益団体や大口献金者の働きかけ、政治的な駆け引き、メディアを通じたPR攻勢などに左右される面が大きそうだ。中道派の有権者が政策の決定権を握るという理想は、いま起きている変化の多くを説明できていないように思える。

大分断──格差と停滞を生んだ「現状満足階級」の実像
タイラー・コーエン(Tyler Cowen)
米国ジョージ・メイソン大学経済学教授・同大学マルカタスセンター所長。ハーバード大学にて経済学博士号取得。「世界に最も影響を与える経済学者の一人」(英エコノミスト誌)。人気経済学ブログ「Marginal Revolution」、オンライン教育プロジェクト「MRUniversity」を運営するなど、最も発信力のある経済学者として知られる。
池村千秋(いけむら・ちあき)
翻訳家。訳書にコーエン『大停滞』『大格差』、ボネット『WORKDESIGN』(以上、NTT出版)、モレッティ『年収は「住むところ」で決まる』(プレジデント社)、グラットン+スコット『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社)他多数。

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