(本記事は、天野 彬の著書『SNS変遷史 「いいね! 」でつながる社会のゆくえ』イースト・プレスの中から一部を抜粋・編集しています)
ある「若いSNSユーザー」の一日
まずSNSが使われる生活世界のテクスチャーに迫るため、現代の典型的な若者ーーここでは架空の大学生、マサキーーのSNS活用法を描写してみよう。多少のデフォルメが入っていることはご容赦いただきたいが、おおむねいまを生きる「マサキ」たちはこんな風にSNSと付き合っている。
マサキはあくまで架空の人物だし、このような大学生がどれくらいいるのかというボリュームはわからないにせよ、いわゆるSNSを使いこなす若者の典型的な姿をミックスするとこのような姿になることは間違いない。
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朝だ。昨日の飲み会で予想以上に深酒して、頭が割れるように痛かった。水を飲めばマシになるはずだと思いながら、体を起こしてまず手に取ったのは、ペットボトルではなくスマホ。充電せず置きっぱなしだったので、バッテリーの残りが危ないが、まず起動して各アプリケーション(以下アプリ)の通知数をチェックする。
LINEの通知が数十件を超えている。自分が昨日参加しなかったサークルの飲み会も盛り上がったらしく、グループにかなりの数の写真やコメントが投げ込まれていた。
それを見るのに躊躇いの気持ちが起こる。実はサークルの飲み会をキャンセルして、友達と一緒に他大学の女の子たちと遊んだので、少々後ろめたい気持ちがあるからだ。
誰もが日々のことをシェアするのが当たり前になっているぶん、逆に本当に大事な飲み会はシェアされない。世の中はいつだってシェアされないことによって動いている。
……などと思いつつ、グループに投稿されたものを、マサキはサーッとさらいながら、自分に関係のある話題がないことに安堵する。その一方で、自分がいようがいまいが、何も関係なんかないのだと告げられている気がして、若干の物足りなさも覚えた。いったんLINEを閉じて、外出の準備にとりかかる。
駅まで歩く道中、もしかすると、最近仲良くなった同級生のユキちゃんが、インスタグラム上で何かシェアしていないか、はては自分の投稿に何かリアクションをしてくれていないか、そんな淡い期待が膨らんでインスタグラムのアイコンをタップしてみる。
ユキちゃんのアカウントは、いいね数は多いし、同じ大学はもちろん、他大学の友達らしき男女からもコメントがたくさん寄せられる。マサキは、ユキちゃんと仲の良さそうな男の存在を認識するたびに、心の中にもやもやしたものが広がっていくのを感じるが、それをぐっと飲み込む。
最新の投稿は、先日みんなで遊びに行ったテーマパークでの集合写真。自分もタグ付けされていて、「みんなは仲間」ということが、暗にアピールされている。マサキはやれやれと思いながらも、居場所を得たような、つながっているんだという安堵感を覚える。
オンライン上でもつながっていなければ、本当につながっているとは言えない。いつからかそう思うようになった。毎日顔を合わせて、何気ない話をして、いろんな体験を共有して、仲が良いと思っている友達が、実は何を考えているのかわかっていなかったのだとSNSで初めて知ることも多い。リアルとSNSを切り離せないのが僕たちの世代なのかもしれない。
その一方で、知らなくていいことまでも露わになってしまうのがSNSというものだ。昨日の飲み会に参加した友人のカケルは、インスタグラム・ストーリーズで、二次会のカラオケの荒れた瞬間を切り取ってシェアしていた。おいおい、と思わず口に出る。これはシェアしない方がいい。ストーリーズのDM(ダイレクト・メッセージ)で、「ヤバいから消しといて」と送る。
ストーリーズは、二四時間で投稿したものが消えるから、勇み足のシェアが多い。「消える」と言ったって、いまではスクショ(スクリーンショット)されて、画像データとして残ってしまうことも日常茶飯事だし、画面録画で動画そのものだって手元のスマホに残せるようになっているから、リスクしかないのに。
こういうとき、同じ場所で一緒の空気を吸っていても、まったく違う現実をSNS上にシェアするのだなあと痛感する。正直、そのカラオケの盛り上がりのピークは、お酒が回り、疲れていたタイミングであまり覚えていない。けれど、それがSNS上に残ることで、マサキにとっても「事実」になっていく。
インスタグラムを閉じて、ツイッターを開く。写真や動画でシェアするのはインスタグラムがメインだけど、何気ないつぶやきはもっぱらこっちだ。アカウントは三つある。ツイッター上の表向きの顔であるアカウント、本音を見せるための裏アカ(裏アカウント)、情報収集用の捨てアカウント。一つに集約しない方が、いろんなツイートも見られるから心地いい。それに、自分は一つじゃなきゃいけないというプレッシャーから距離をとれる気がしている。
友達とのやりとり用につくっておいた「裏アカ」で、やりとりが進んでいて、リプライが十数件に及んでいた。大半は、自分が返信やリアクションしなくても進むような他愛のない会話だったが、友人の一人が「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という『スラムダンク』のセリフと画像を引用して、意味深な雰囲気を醸し出していた。
このまえ第一志望の企業のインターン選考に臨んでいると言っていたから、たぶんそれがダメだったということなのだろう。表立っては言わないけど、こういう風にして適度にお互いのことを察し合いながら、付かず離れずの関係をキープする。
マサキ自身もツイッターの裏アカで、アルバイト先の愚痴をツイートしている。友達も、何人か働いているので、つぶやくといつも反応してくれる。そう、誰かの悪口を言うことで、仲が深まることは結構ある。
フェイスブックは、最近では月に数回しか開かなくなったが、年配の知り合いは頻繁に使っているから、その関係で触れることがある。マサキにとっては、いままで出会った人々を記録した名簿のようなものだ。上の世代とつながる必要があるから、そういうときのためにアカウントを持っている感じだ。
でも、何かの催しを開きたいとき、フェイスブックでみんなを招待してそこで情報共有することはある。招かれる側も出席・欠席・未定と返事を簡単にできるし、誰が来るかわかるから、そのイベントに参加する意義がどれくらいあるかわかりやすい。「あ、あの人が来るんだったら、絶対行かなきゃ!」ということもある。もちろん、その逆も。
SNSをよく使う若者を、「スマホ廃人」とか「SNS依存症」とか、現実とネットの区別がつかない危険人物として扱う人がいるらしい。でも、そういう考えに、マサキはリアリティを感じられない。オンラインとオフラインの自分は表裏一体だし、それは区別がつかないんじゃなくて、シームレスなだけだ。
……だから、インターネット上でも、コミュニケーション充していないと満たされない。面倒な時代に生まれてしまったなあと思うが、それは錯覚なんだろうか。大学の最寄り駅に着いたことを告げるスマホの音声を聞きながら、いいね数がさほど伸びない自分のインスタグラムの投稿を見て、そんなことを考える。
いろいろなSNSでつながることができるが、最近は、知り合った人とはまずツイッターやインスタグラムのアカウントを教え合う。それゆえ、初めて出会う人に好印象を持ってもらいやすいよう、僕たちはツイッターでカッコつけたことを言ったり、インスタグラムで映える写真を載せたりするのだ。
改札をくぐると、カケルからメッセージが来た。「スタバに寄って、アイスラテ買ってから授業行くぞ!」。カケルとはスナップチャットで位置情報を共有している。ちょうどカケルも駅の周辺にいるようだった。
合流すると、ユキちゃんの話をし出して、カケルは妙に上機嫌な様子だ。そういえば、デートの約束をとりつけたことを、インスタグラムで「匂わせ」ていた。インスタグラムにオシャレなごはん屋さんの写真をシェアしたところ、ユキちゃんが行きたいとコメントをしていたのを目撃したが、まさか進んでいたとは……。きっとその流れで、その系列の別の店に行くことになったのではないか。ツイッターの裏アカでも、土曜のデートが楽しみだと書き込んでいたのを思い出した。マジか……。目の前にボタンがあったら、「いいね!」じゃなくて「よくないね」と押したい気持ちだ。
カケルの方が一枚上手だった……。先を越されたことの無念さに苛まれ、せっかく買ったフラペチーノも味わえない。「昨日のあいつのインスタグラム見た⁉︎という話に愛想笑いを浮かべて、適当に相槌を打ちながら、学生でごった返すキャンパスに立つ創立者像を横目に、つながりが支配するその雑踏の中へと溶け込んでいった。
MAUから見るSNS利用状況
マサキの話に続いて次に、定量的な現状俯瞰のために、各サービスが公式に発表している利用者についてのデータに基づいて現在のSNS利用状況を確認しておこう。
こうしたときによく見られる指標としては、各アプリのMAU(”Monthly Active Users”の略)があり、これは月に一度でもそのアプリを使った人が、どのくらいいるかを示す。MAUを中心に利用状況をまとめたものが図表2になる。
これを見ると、フェイスブックが、どんな国家の人口よりも多いユーザーを集め、世界一のプラットフォームを形成していることがわかる。一方で、日本国内だけで考えると、ツイッターが最も多く使われているSNSであり、いかに日本人がツイッター好きかわかるだろう。インスタグラムも、この数年でフェイスブックを上回るようになり、これは世界でも日本だけの現象だ。
利用者のボリュームを腑分けして見ていくと、日本では若者に人気のあるツイッターやインスタグラムに勢いがある。すなわち、デジタルコミュニケーションは、若者の世界なのだということが見えてくる。
日本におけるSNSの世界、つながりの空間が、ユースカルチャーに偏っているという点は、SNSの栄枯盛衰を語るうえで重要な視点である。若者に好かれなければ、SNSは成功できないと言うこともできるし、「大人のソーシャル」をどう構築するかということが、実は重要な課題であると考えることもできる。