(本記事は、天野 彬の著書『SNS変遷史 「いいね! 」でつながる社会のゆくえ』イースト・プレスの中から一部を抜粋・編集しています)

パソコン通信から、個人サイトやメールマガジンへ

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(画像=PIXTA)

一九九〇年代前半。まだインターネットが普及していない時代の、いわばインターネット前史だ。そのときには、パソコン通信を介したコミュニケーションがあった。フォーラムと呼ばれるテーマごとの掲示板が存在しており、同じ趣味や嗜好を持ったユーザー同士が集って、会話を楽しんでいたという。

パソコン通信の大手としては、ニフティサーブ(@niftyを経て現・ニフティ)、PC-VAN(現・BIGLOBE)、アスキーネット(アスキーによるサービス、後にネットワーク事業から撤退)などで、前者二つは現在もプロバイダ事業を手掛けている事業者だと気づく。商用大手としては最後まで残っていたニフティが、二〇〇六年三月末でパソコン通信サービス「ニフティサーブ」を終了したことで、パソコン通信は事実上廃止された。

は? という気がするかもしれないが、パソコン通信はある一つの場所に各ユーザーがアクセスするのに対して、インターネットは点と点がーーつまり、ユーザーとユーザーとがーー直につながるという設計上の大きな違いがある。これは、一つの場に集うことから、分散化していく流れを構造上先取りしていたとも言えるだろう。

パソコン通信から、インターネットへ。フォーラムから、各自がつくり出すウェブサイトへ。平成初期に起きたこの移り変わりによって、多くの人々がコミュニケーション可能な環境へとシフトし、さらに1 to 1から次第に1 to Nという色彩を強く帯びるようになっていったのだ。

次に、個人ホームページ、そこにしつらえられた「掲示板」、そして最も更新されるコンテンツになりがちな、しかも読まれるものとしてあった「日記」。これらが個々人の情報発信の端緒となった。

筆者も二〇〇〇年前後、中学生時代に友達同士でウェブサイトをつくり、自分たちがハマっていたゲームの攻略情報を発信したりしていた。いちおうメインのコンテンツはゲームの攻略情報(主に野球ゲーム、対戦格闘ゲーム)で、これを四人で分担して作成していた。当初は、掲示板と日記はサブコンテンツだったが、次第に更新が億劫になり、最終的には四人それぞれのゲームや学校の日常を綴ったウェブ日記が、メイン更新コンテンツとなっていった。手軽でハードルの低いものにユーザーが流れる傾向にあることは、だから実体験としてもよくわかる。

検索エンジンもSNSもない当時、新しいサイトにたどり着くための主要な手段の一つがリンク集だった。有名なところでは、「日記才人」、旧「津田日記リンクス」にあたる「日記猿人」などが挙げられる。

読むべきウェブ日記のアドレスリンクがまとめられており、そこに行けば人気のウェブ日記を知ることができた。投票制度もあったため、読者が民主的にランキングの結果に関われるという制度設計上のメリットもあった。いま流行っている曲、みんなが好きな曲、自分にとって出会う価値のある曲を探すために、ヒットチャートランキングを参照するのと同じような感覚だ。

個人の情報発信としては、ウェブ日記の他に「テキストサイト」をつくる人々もいた。自分の興味に沿ってウェブニュースのリンクを貼るなど、まとめられたものを指す。音楽やアニメ、映画など深いカルチャーの領域だったり、PCなどのデバイスやインターネット関連のニュースだったりが題材として多かったと言われる。

また、テキストサイトの中でも、情報発信というよりもネタ系に近いスタイルを持つものもあった。独自のフォント使用術や発掘する面白ネタを発掘して発信することで有名になった「侍魂」は、テキストサイトの存在を社会に広めた象徴的なサイトだった。管理人の「健」さんは、顔も本名も明かしていないが、侍魂の管理人ということで大人気になり、いまで言うインターネット上のインフルエンサーのような扱いを受けた。各種イベントでの登壇をはじめ、二〇一九年頭にNHKEテレで放送された平成のインターネット文化を振り返る番組『平成ネット史(仮)』に登場して当時のことを述懐していた。

同時期に特徴的だったものとして、メールマガジンも私たちのコミュニケーションを開いていった媒体として重要視されるべきだ。自分の専門性や発信したいことを、不特定多数の人々に届ける文化がそこで育まれていった。そのサービス理念が読み手を書き手にすることにあったことを想起すると、読み手と書き手との交換性、言い換えれば、そのN to N性が、社会の中にインストールされていった事実をここに認めることができるだろう。

日本のソーシャル環境は2ちゃんねるの道に通ず

九〇年代後半に出現した「掲示板」も、私たちが交流する場として重要な意味合いを帯びていた。個人のウェブサイトにも備えつけられていた一方で、次第に大きな場に集約されていく動きも見られたーーつまり掲示板サイトという存在である。

掲示板の中でも、スレッドフロート型掲示板という形式が一つの革新だった。書き込みがあるとスレッドが上位に移動(フロート)するタイプの掲示板を指し、コミュニケーションが盛んなスレッドをより盛り上げ、可視化させる効果がある。盛り上がっているテーマについて、ユーザー同士がオープンに、かつ熱くコミュニケーションする場が生み出されていったのだ。

この形式を生み出したのは「あめぞう」だが、一九九九年に誕生した「2ちゃんねる」(現在は5ちゃんねる)が、最も巨大な掲示板として成長し、日本の初期インターネットカルチャーを決定づける存在となる。2ちゃんねるの名前の由来は、あめぞうを「1」としたときの「2」にあたるところから来ている。

この時期を境に、一つの大きな場にユーザーが集まり、コミュニケーションを交わしながら情報を交換し合う作法が、私たちの社会の中に根づき、報が集積して「世論」や「トレンド」を生成する場が生まれたと言っていいだろう。

2ちゃんねるの特徴は、二つの循環性だ。話題が循環するスレッドフロートの仕組みと、発信者が循環する「匿名性」ーーただし、実際には違法投稿などの際に発信者を特定できるため、匿名性は備えているが、完全な匿名制ではないーーである。発信者が匿名であることで、誰が発言するのか、その役割が固定化されない。多くのオンライン・コミュニティにおいては、顔なじみの関係性に重きをおいたり、誰々が言っているから云々んということになり、常連と新参者との溝が生まれがちだったーーこれは私たちの日常生活においてもそうだ。

ところが、2ちゃんねるでは誰もが「名無しさん」だったため、常連かそうでないかが判別されにくい。新陳代謝が促されやすく、多くの発信者が参入しやすいという特徴が見られた。もっとも、2ちゃんねるでは、カルチャーとして「新参者(初めて2ちゃんねるに来て投稿のマナーをわかっていない人々)」をディスったり嗤ったりする傾向はあった。例えば「厨房」というスラングは、夏休みで暇になった中学生がしようもない書き込みをすることに由来している。

また、2ちゃんねるのユーザーが「住人」と呼ばれていたことの示唆は大きい。板(スレッド)ごとに村のような集いがイメージされ、そこに人々は住んでいたーーただし、先述したようにユーザーたちは匿名で、そこに何がしかのコミュニティの実態があったわけではないーーのである。では、何が住人たちの一体感を支えていたのかと言えば、社会学者の北田暁大氏(二〇〇五)が分析するように、ある特定の物の見方としてのアイロニーである。それが、2ちゃんねる特有の世の中の常識や流行に染まらないカウンター・カルチャー空気を醸成していた。匿名であっても、顔が見えなくても、同じ世の中の見方をしているという連帯性が、その場の共同性を保ったのだ。

2ちゃんねるが生み出したネットカルチャー

2ちゃんねるは、さまざまな社会現象の発信地となった。繰り返してはならない事件や犯罪、ユーザーたちの突発オフなど数え切れないほどあったが、筆者はスレッド上で盛り上がったことで作品へと結晶化した「電車男」の事例が重要だと思っている。2ちゃんねる上での盛り上がりはもちろん、書籍化、のちには映画化、ドラマ化され、社会現象となった。これは、集合知がクリエイティブに作用したこと、言い換えれば、コミュニケーションがボトムアップでコンテンツに昇華されていったことの、最も先端的かつ日本的な例証だったと考えられる。みんながストーリーの紡ぎ手となったのだ。

さらには、コピペ文化、AA(アスキーアート)文化というものも、ユーザー間でのコミュニケーションにより発展し成熟していったという意味で、本書で取り上げる意義があると感じる。例えば、有名テキストサイトで生まれた「吉野家コピペ」というものがあるが、筆者を含め多くの人々がこれを知ったのは、2ちゃんねるを通じてだったのではないか。少々長くなるが、懐かしい気持ちで引用してみよう。

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昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、150円引き、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、150円引き如きで普段来てない吉野家に来てんじゃねーよ、ボケが。
150円だよ、150円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな。
よーしパパ特盛頼んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその席空けろと。
吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、大盛つゆだくで、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、つゆだくなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、つゆだくで、だ。
お前は本当につゆだくを食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、つゆだくって言いたいだけちゃうんかと。
吉野家通の俺から言わせてもらえば今、吉野家通の間での最新流行はやっぱり、ねぎだく、これだね。
大盛りねぎだくギョク。これが通の頼み方。
ねぎだくってのはねぎが多めに入ってる。そん代わり肉が少なめ。これ。
で、それに大盛りギョク(玉子)。これ最強。
しかしこれを頼むと次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、牛鮭定食でも食ってなさいってこった。
  (ニコニコ大百科(仮)「吉野家コピペ」)

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この「元ネタ」に合わせて、さまざまな改変ネタが開発されていった。コピペで広まっていったこの吉野家ネタこそ、インターネット・ミームーーインターネットを通じて人から人へと、模倣として広がっていくイメージ、ハイパーリンク、動画、画像、ウェブサイト、ハッシュタグなどーーに他ならない。

SNS出現以降、ウェブサイトなど一つの場を「訪れる」というような体験のイメージが薄れていくことになった。2ちゃんねるでのユーザーのやりとりも切り貼りされて、まとめサイト/ブログやSNSなどに流出するわけだが、このようなコミュニケーションが成立していたということこそ、2ちゃんねるがソーシャルな環境の特質を一部持っていたことの証拠なのだと筆者は感じている。

SNS変遷史 「いいね! 」でつながる社会のゆくえ
天野 彬(あまの・あきら)


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