(本記事は、天野 彬の著書『SNS変遷史 「いいね! 」でつながる社会のゆくえ』イースト・プレスの中から一部を抜粋・編集しています)

実は日本人はあまりSNSを利用していない?

SNS
(画像=ESB Professiona/Shutterstock.com)

総務省が発行している情報通信白書(「情報通信に関する現状報告」)は、昭和四八年に第一回が公表されて以降、毎年リリースされ続けており、そこでレポートされる情報メディアの利用についての調査結果は信頼性も高く、広く公的に参照されるデータとなっている。

二〇一八年七月に公表された平成三〇年版の情報通信白書は、「人口減少時代のICTによる持続的成長」という特集テーマを掲げ、新しい産業の創出、働き方の生産性向上、インクルージョン促進などを深く掘り下げている。インクルージョンとは、いまさまざまな場で取り上げられる言葉で、日本語に対応させると「包摂」を意味する。特に社会的な文脈で使われる場合は、人と人との縁やつながり、結びつきを実現していこうという考え方や志向性をともなう。

私たちは、家族、友人知人のネットワーク、地域や趣味などのコミュニティ、仕事や職場での縁など……言ってみれば、さまざまなインクルージョンの中で生きている。現代ではそのあり方がインターネットによって変化しており、時間や場所を超えて、(第二章で説明したような)同期的/非同期的/擬似同期的に、コミュニケーションのコストを低くして、つながり合うことができる。白書の第四章の中に「複属」とあるが、これは、一人が多様なコミュニティに属することができるようになった状況を表現している。

しかしながら、白書の調査データを見ると、そう話がうまくいかないことに気づく。すなわち、日本では「ソーシャルメディアがあまり使われていない」という事実ーーより正確に言うならば、自分からの発信に乏しく、新しい人間関係やつながりを創出する使い方が弱いという実態ーー見えてくるのだ。ここまで、いかにSNSが世の中に大きなインパクトを与えてきたのか話してきた一方で、筆者はそのようなリアリティにも目を向けるべきだと痛感している。

同白書によれば、ソーシャルメディアでどれだけ情報発信を行っているのかの割合について、フェイスブックでは「自ら情報発信や発言を積極的に行っている」が五.三%、その最も情報発信をする人も含めた情報発信層の割合は約一四%。つまり七人に一人しかいない計算となる。インスタグラムでもほぼ同様のスコアで、先述したような20:80の法則に近い結果が得られる。

LINEはもう少しそのスコアが高くなるが、不特定多数とつながるSNSというよりは、特定のすでに見知った相手と連絡をとることが主眼となるインスタントメッセンジャーに分類されるので、ここでは議論から外しておこう。

他国との比較の視点でさらに見ていくと、フェイスブックについては、日本は約一四%だったものが、アメリカでは約七〇%(!)。イギリスが約六〇%、ドイツが約五〇%である。このことを考えると、日本のスコアの低さに否応なしに目が向く。ここまで大きな差は生まれないが、インスタグラムにおいても日本の低さは際立つ。一方で、例外的にツイッターは健闘しており、第二章で述べたように日本との相性の良さはまだまだ健在だ。

この傾向は、Reuter Institute "Digital News Report 2018"という世界のデジタルニュースに関するトレンドレポートでも指摘されており、日本人はアメリカやヨーロッパ、アジア諸国と比べても、ニュースについて自らコメントしたり、シェアしたりすることが少ないと言われている。

二〇一八年には、インスタグラム上でタレントのローラさんが沖縄の基地問題について意見を表明したところ、芸能人が政治的発言することの是非について賛否両論が起こるという事案が発生した。そうした議論が発生してしまうこと自体に、いま述べてきた問題が絡んでいることは間違いないだろう。自分の意見を公に発信することへの不可視のハードルが日本にはある。

日本人に顕著なデジタル不信傾向

図表14は、ソーシャルメディアを利用してどんなメリットを感じたのか、日米独英で比較したもの。

日米英独のSNS利用比較
(画像=SNS変遷史)

「暇つぶしができた」や「自分が興味のある情報を得ることができた」のスコアでは、日本も他国と変わらないが、「社会や経済に関するニュースを得る」では少し低くなり、さらに「新しい友人ができた」「相談相手ができた」といった新しいつながり創出や、「家族や友達との結びつきが深まった」「しばらく連絡をとっていなかった人と再び連絡をとるようになった」という既存のつながり強化の面では、圧倒的に劣後してしまう。

すなわち、日本のソーシャルメディアは、「つながりの時代だ」という喧伝とは反対に、つながりのために利活用されていないことがここには示されている。そして、どのような社会調査であっても日本では親しくない人とSNSを通じて親しくなるということがあまりないーーつまり、新しいつながり創出の場として機能していないーーということが指摘される。

信頼社会ではなく安心社会という閉鎖性と、SNSが新しいつながり創出に役立っていないという二つの課題は、いわゆる「鶏が先か、卵が先か」という因果性のジレンマを思わせる。社会がこうだから、SNSもこんな風に使われているのだとも言えるし、SNSがそのようにしか活用されないから、そういう社会が変わらないのだとも考えられる。

あるいは、より大きな構造的課題に属する事柄なのかもしれない。そう感じられるのは、電通イージス・ネットワークの公表する国際比較のデータも同様の傾向を示しているからだ(図表15)。これによれば、他国に比べて日本はデジタルテクノロジー全般への信頼が高くないと結論づけられる。つながりの視点から、安心社会的な視点から、SNSだけを採り上げて判断することは本質を見誤るかもしれない。そもそもデジタルテクノロジー全般への社会的な距離感、態度のあり方が関係しているようにも見受けられる。

図表15
(画像=SNS変遷史)

しかしながら、そのような一面的な見方で「私たちは遅れている」と言っていても詮ないことであって、例えば筆者が興味深いと思うのは第三章で述べたような「タグる」だ。

発信者の名前や所属ではなく、内容についてつながっていくこと。ゆるやかに「身分」や「なわばり」が解体され、自由なコミュニケーションの領域を広げていくこと。それによって、少なくともあるレベルにおいて、ウェブ上のやりとりは豊かになっているはずだし、自由をもたらす理念とともに生まれたインターネットやSNSが、すぐに儀礼的なコミュニケーションにまみれてしまう私たちの現状へのささやかな処方箋の一つになるだろう。

またそもそもの話として、社会的なインクルージョンを高めるためにはSNSが重要というのは間違いないが、むやみやたらに「知らない人とも積極的につながりましょう!」「もっと自分の意見をシェアしましょう!」と推奨して回ることに意義があるとも思えない。

むしろここでの主張の本丸は、私たちを取り巻き規定するような社会的条件を前提として組み込むこと、そのうえでマーケティングやコミュニケーションに関わる仕事に取り組まなければならないということにあるのだ。

『ニューロマンサー』などで知られるSF作家ウィリアム・ギブスンが指摘するように、「未来はすでにここにある。ただ均等に分配されていないだけだ」ということがここでも思い出される。

裏アカと承認欲求

日本社会はそれほど発信していないーー言い換えると、局所的にとてもアクティブに発信している人々がいるにすぎない。SNSの勢いが増す中で隠れがちな、そんな実態を確認してきた。

そういった中でも、その発信のハードルを下げるのに寄与するのが、複数アカウントだ。一般的には自分のオフィシャルなアカウントに対して、裏アカウント(裏アカ、裏垢)と呼ばれている。その所有率は子ども全体では三九.六%、女子高校生は六八.九%となり、深く繋がれるから(三五.九%)」、「趣味が合う仲間と深く繋がれるから(三五.九%)」となっている(「第11回未成年者の携帯電話・スマートフォン利用実態調査」二〇一八)。

悪い使い方だけに限らず、趣味の情報収集や、同じ趣味の人々と深くつながり楽しく過ごすためのツールとして、アイドルやアニメが好きな人による利用も多い。みんなが見ているところで興味を持たないかもしれないことを延々とシェアし続けるのは、気が引けるという気づかいの証拠であるともいえる。あるいは、気の置けない友達だけでつながって、表では言えないことをシェアして盛り上がる使い方が多い。

ただし、これがひょんなことからバレて炎上するという事例もあとを絶たない。裏アカとはいえ、それが特定されれば現実社会に大きく影響することには変わりなく、慎重な運用が求められるのだが、投稿するアカウントを間違えてオープンな本アカウントでシェアしてしまう初歩的な間違いを犯すユーザーや、人格が混ざって表アカウントで問題発言をしてしまう人もいるだろう。

余談ながら、フォローし合うなど裏アカと本アカとを結びつける人もいるが、バレるリスクを上げてしまうので危険だ。電話番号登録や、連絡先の同期も、周囲にバレる危険性を高めてしまう。

近年では、finsta(フィンスタ)という言葉も生まれた。fake+Instagramの略で、偽のインスタグラム・アカウントのことを指す。学生なら、学校の先生や部活のコーチ、社会人なら会社の上司や同僚など、プライベートの自分を見せたくない相手はいるものだが、「インスタアカウントある?」と聞かれたら断りづらい。そんなときのためにフィンスタをつくっておいて、それを教えるのだ。

つまり、総体として、裏アカは現代的な人間関係における処世術として機能していると言える。そしてそれを、日本的な「本音と建て前」の文化と紐づけることも可能だろう。

SNS変遷史 「いいね! 」でつながる社会のゆくえ
天野 彬(あまの・あきら)


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