(本記事は、高須 克弥氏の著書『全身美容外科医 道なき先にカネはある』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)

報道
(画像=PIXTA)

文春砲を受ける

いまの僕しか知らない方は、僕が順風満帆に生きてきたと思われるかもしれません。医者の家に生まれ、立ち上げた美容外科クリニックは成功。テレビやCMではやりたい放題。おまけに家族や知人にも恵まれている。

こう書いてみると、順風満帆そのものといえます。しかし、必ずしも楽しいことばかりではありませんでした。僕は美容外科医の先駆者になったことで各方面からさまざまなバッシングも受けましたが、週刊誌の記事をきっかけにマルサ(国税局査察部)に踏み込まれ、その争いに最愛の母を巻き込んでしまったことがあります。

これから語るそんな経験は、いま思い出しても、本当に苦いものでした。

脂肪吸引にジョンソン式豊胸手術とヒットが重なり、業績は右肩上がり。しかも、テレビでは医者らしからぬ言動で目立ちまくっていた。そんなイケイケの状況を面白くない思いで見ていた人たちもいました。むしろ、格好の餌食だったでしょう。

あるとき突然、広告スポンサーをしていた『週刊文春』から「来月から広告を入れることができません」と連絡がありました。「これは何かやってくるな」と思いましたが、嫌な予感は的中です。電車の中で何気なく見た『週刊文春』の中吊り広告に目が点になりました。驚くことに、鄧小平などと並んで僕の写真が出ていました。よく見ると、見出しには『ドクター高須の「医は算術」』と大きく印刷されていました。

その記事は悪意を持って書かれたバッシング記事でした。今でいう、「文春砲」です。僕は儲けることが好きなわけではなく、面白いのでビジネスを拡大していただけなのですが、その記事では単なる金儲け好きな医者として僕が描かれていました。結局のところ、美容整形なんぞで儲けた成金と判断されたというわけです。攻めていく医者は悪い医者。日本では出る杭は打たれるという現実を、身をもって知りました。

『週刊文春』は3週にわたって、『ドクター高須の「医は算術」』特集を組み、あることないこと書き立てました。その特集号は売れたそうです。売り上げに気をよくしたのか、『文藝春秋』でも同様の特集が組まれました。

マルサに踏み込まれて

もっとも、週刊誌にバッシングされたところで痛くもかゆくもありません。

本当の不幸はこの後でした。この記事が国税局査察部の関心を呼んでしまったのです。1990年、僕の納税地である名古屋のマルサが大挙して押し寄せました。利益はうなぎのぼりで、居住地である一色町では常に納税額ナンバーワン。当然、住民税もナンバーワンで、それもあってか町長さんが紺綬褒章を届けてくれたこともあります。マルサの皆さんがおいでになったのは、その数日後のこと。「また何かいただけるんですか」という質問に、「国税はいただくだけなんですよ」と答えた査察官はなかなかユーモアがありました。

査察官は僕が所得税法違反をしていると言うのですが、寝耳に水の話でした。「脱税というのは納税申告書にウソを書いて申告することによって成立します。この納税申告書のサインはあなたのものですね」とサインを見せられましたが、僕にはまったく見覚えのない字でした。それは母の字でした。僕は美容外科の専門家であって、お金のことには興味がなかった。それを理解している母は、「あなたはお金を貯めることができない人だから私が管理してあげましょう」と言ってくれていたので、任せっきりにしていたのです。母は僕の稼ぎの一部を投資に回してくれていましたが、バブルの時代だったため、僕の知らないうちに大きく膨らんでいました。

しかし、僕はそんなことをまったく知らないわけですから、罪になるのはおかしいと反論しました。「僕は何も知らないし、年老いた母が申告を間違えただけでしょう。誰にも罪はないんじゃないですか」と詰め寄りましたが、国税の方は、「これだけ大きな額が表に出て、誰も悪い人がいなかったというわけにはいきません」ときっぱり言い返してきました。

結局、脱税の罪で在宅起訴されました。脱税は納税申告書にウソを書いたという罪ですが、僕は両罰規定といって会計責任者をチェックしていなかった。おまけに納税申告書を確認もせず、サインすらしなかったという罪でした。納得のいく理由であれば仕方がありませんが、こんなことで脱税の汚名を着せられるのはまっぴらごめんでした。そこで、僕は最高裁まで戦い続けました。

約100億円の借金を抱える

悪いことは続きます。さらに、脱税の裁判で戦っている間に、バブル崩壊の憂き目にも遭いました。バブルの頃はずいぶん投資しました。お金があるからではありません。お金があろうとなかろうと銀行がいくらでもお金を貸す時代だったのです。

母にお金の管理を任せていたことが間違いだったと気づいて以来、僕は自分で管理するようになり、また自身で投資も始めていました。お金を稼ぐこと自体に興味があるわけではありませんが、いま思い出しても、あの時代は本当に面白かった。土地を買うと、銀行はそれを上回るお金を貸してくれました。それでまた土地を買うとまた値上がり。僕は有り余る資金を日本やハワイの不動産に投資。言ってみれば、典型的なバブル投資です。当時、僕は「美容整形界の千昌夫」と呼ばれていました。

しかし、やがてバブルは崩壊。これにより、90年代後半には約100億円もの借金を背負ってしまいました。当時の知り合いだったバブル紳士の多くが行方知れずになりましたが、僕の場合、仕事が順調なことが救いでした。そもそも医者というのは職人であり肉体労働者。それこそ朝から晩まで働き続けることで何とかもちこたえることができました。

どうにかピンチを乗り切りましたが、災難はこれだけでは終わりませんでした。国税との戦いは長期間に及び、7年かけて最高裁まで争いました。97年7月、最高裁は二審の有罪判決を支持。僕と母の上告は棄却され、僕には2億円の罰金刑、母には懲役1年8ヵ月の実刑が確定しました。

この騒動のとき、母は「全部私がやりました」「息子は何も知りません」と言い切りました。当時、お金の管理は母に任せていたので、実際その通りではありますが、一切弁明をしませんでした。あのときのことを思うと、本当に感謝しかありません。

  

突然の裏切り

罰金刑以上の刑を受けた医者は、医業停止という行政処分を受けることになっています。僕も1年間の医業停止を受けました。つまり、1年間は医者の仕事ができないということです。

このとき、誰もが「高須は終わった」と思い、蜘蛛の子を散らすように去っていきました。僕には手塩にかけて育てた弟子たちがいました。僕はクリニックで働くドクターそれぞれに、ひとつの技術をしっかり教えて、その施術のスペシャリストになるように育てています。たとえば、「君は脂肪吸引の名人を目指しなさい」「君は二重まぶたの名人になれるぞ」「君はおっぱいだけの名人です」など各ジャンルの名人を育てます。なお、ライバルに育ってしまうと困るので、全部は教えません。

10年も働いてくれたら技術もしっかり身につきますから、独立を望むのであればグループのファミリーとして支援します。成功した高須クリニックOBは数多くいますが、彼らは皆、そうして育ててきた人材です。

僕は弟子たちに頑張ってもらい、医業停止という難局を乗り切ろうとしたのですが、想定外の事態が起きました。なんと、主力だった4人の医者や看護師、事務スタッフをごっそり引き連れ、ライバルクリニックを開業したのです。聞けば、スポンサーもいるとのことでした。

いま思い出しても、あの離脱劇は痛かったし、許せませんでした。僕は何よりも義理と人情を大切にしています。ですから裏切りに対しては対抗措置をとったこともあります。結局、彼ら離脱組は内部崩壊してしまいました。僕は残ったスタッフと医師たちの努力で難局を乗り越えました。

自分自身を実験台にする

いま振り返っても、この時期は波乱続きでした。強欲医師の汚名を着せられ、弟子には逃げられ、大借金のうえに医業停止で働くことすらできない。絶望して死にたいと思っても仕方がない状況です。しかし、僕のモットーは「ピンチはチャンス」です。

先に述べましたが、高須家には「生きているうちに起きたことは必ず生きているうちに解決できる」という家訓があります。であれば、何があっても、ポジティブにいるべき。むしろ、思い悩む必要なんてありません。人間というのは思い悩むと思考が停止して、いいアイデアが浮かびません。だから思い悩むことなんてないのです。人生というものは気をつけていても転ぶときは転びます。そんなときでも「そのうち解決するさ」と割り切って、くよくよせずにいるほうが人生は楽しいし、問題も早く解決します。

そこで、1年間の医業停止は、普段仕事に忙しい自分に対するプレゼントと受け止めました。その間、世界各地を回り、海外の優秀な美容整形外科医を訪ねて先端の手術を学びました。そして、時間があるこの機会に自分自身を実験台に大きな整形手術も行いました。

医者の中には、患者で実験しながら腕を上げていくという人がいますが、僕は反対です。プロであれば完璧な技術を習得してから患者さんの手術をするべき。新しい技術の安全性、確実性を見極めるには自分自身が体験するのが一番だと考えます。そのために、自分で開発した技術も、外国で学んだ施術も、まずは自分の身体で試すことをモットーにしています。

もちろん自分では執刀、施術はできません。そこで妻や弟子や息子などに実行させました。ただ受け身でいるわけではなく、できる限り部分麻酔にして、自分自身で指示を出しながら行ってきました。

全身美容外科医 道なき先にカネはあるび
高須 克弥
1945年1月、愛知県生まれ。日本の美容外科医。医学博士(昭和大学、1973年)。美容外科「高須クリニック」院長。東海高校、昭和大学医学部卒業。同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。「脂肪吸引手術」を日本に紹介し普及させた。「プチ整形」の生みの親でもある。紺綬褒章を受章。近著には『炎上上等』『大炎上』(ともに扶桑社新書)などがある。

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