(本記事は、高須 克弥氏の著書『全身美容外科医 道なき先にカネはある』講談社の中から一部を抜粋・編集しています)
高須クリニックの開設
1976年、愛知県名古屋市に美容外科の専門病院である高須クリニックを開設しました。クリニックの看板に書かれた診療科目は「整形外科 眼科 泌尿器科 皮膚科」。そこに「美容外科」という文字はありませんでした。病院や診療所が看板や電話帳などで広告できる診療科名のことを標榜科目といいますが、美容外科が標榜科目として認められ、正式な診療科となったのは、開業から2年が経った1978年のことであり、当時はまだ美容外科という言葉自体も存在しませんでした。
だから看板に「整形外科 眼科 泌尿器科 皮膚科」と記載して患者にシグナルを送り、「こう書いてあるということは、二重まぶたにしてくれたり、鼻を高くしてくれたりするんだろう」と治療内容を察してもらったのです。その昔、地図上に逆さクラゲの温泉マークが書いてあると、「ここに連れ込み旅館があるんだな」と暗黙の了解でわかりましたが、これと同じようなものです。
当然、大学の医学部には美容外科の講座や授業はありませんでした。現実には、はるか昔から「美容整形」という名称で美容外科手術が行われており、美容外科をやっている医者がいることは知られていましたが、学問として成立していないゆえ、目指すものでも、なるべきものでもありませんでした。
実際、僕が美容外科の道に進むと打ち明けたとき、親戚中からこう罵倒されました。
「よりによって美容整形をやりたいなんて、頭がおかしくなったのか!」
とりわけ父方の伯父の反対は強烈でした。僕が中学1年のときに早世した父は5人兄弟でしたが、その長兄にあたる伯父は結核治療で財を成し、サナトリウムをいくつも持っていました。その伯父に呼び出されて、こう宣告されました。
「もし克ちゃんに悪い問題が起きても、わしらはまったく関係ない」
つまり、「お前は医者ではないことをするんだ。もし何かあったら親戚として縁を切るぞ!」というわけです。カチンと来た僕は「そのうち結核なんて撲滅されてしまう。そして、みんなが長生きする時代が来て、若くてきれいな人がモテる時代が来ると思うよ」と反論しましたが、伯父は「そんな時代が来たら逆立ちして日本中を歩いてやるわ!」と自信満々でした。
結果は皆さんがご存じの通りです。結核は過去の病気になり、いまの若い人はサナトリウム自体を知りません。本音をいえば、伯父に逆立ちをさせたかったのですが、死んでしまってはどうにもなりません。結局、父親の兄弟のうち、僕の成功を見届けてくれたのはたった1人だけでした。
美容外科のルーツは世界大戦
もっとも、親戚から出た「美容外科医は医者ではない」という言葉は必ずしも間違っていません。医療の世界では、ヒポクラテスの時代から「医者は病人しか扱ってはいけない」という不文律があるんです。
本来、病人に治療をするのが医療です。形成外科も美容外科も体の外面的な部分を整えるということでは共通する医療であり、治療には同様の技術が必要とされます。しかし、容姿や見てくれの老化は病気ではありません。当然、病気ではない人にメスを入れるのは治療ではないという考えはもっともであり、それゆえ、いかがわしい医療とみなされ、美容外科は標榜科目として認められなかったのです。1975年、形成外科が標榜科目として認められ、正式な診療科となったとき、わざわざ「形成外科に美容は含まない」と定義されたのもそのためです。
一方で、「美しくなりたい」「もっと若くなりたい」と願うのは女性の、いや人間の本能であり、昔からそう願う女性はたくさんいました。正式な診療科として認められる前から、それこそ戦前から、美容外科は多くの女性たちに求められていたのです。
美容外科のルーツについては、古代インドで刑罰として「鼻そぎの刑」をうけた罪人の鼻を修復したという伝承もあります。しかし、いま我々がやっているような美容外科は、第一次世界大戦後、戦いによって容貌を破壊された兵士の見た目を良くしようとしたことが始まりとされています。つまり、見た目を修復する形成外科の技術です。やがて戦争が終わり平和になってきたとき、鼻をつくれるのであれば鼻を格好良くしようじゃないか、あるいは崩れた顔の容貌を治せるのであれば天然で崩れた部位をきれいにすることもできるのではないか、とその技術が発展していったのでした。
こうした経緯ゆえ、「近代の美容外科のルーツは形成外科だ」「美容外科は形成外科から分かれたものだ」と主張する形成外科出身の美容外科医がいますが、それは間違いです。現実には日本の美容外科は、民間主導で独自の発展をしてきたという異色の歴史を持っています。
日本では、アメリカ軍が進駐してきてから形成外科が一般的になってきましたが、それ以前から、美しくなりたいという女性の要求にこたえて、街の耳鼻科医が隆鼻術を、眼科の医師が二重まぶたなどの手術を、すべて手作業で試みていたのでした。
鼻を高くする祖母の手術
祖母もまた、美容外科の走りのようなことをしていました。昔の医者は医学部を卒業し、医師国家試験に合格していたわけではありません。勝手に自称できましたし、腕の良い医者のもとで修業をして技術を盗み取ったのです。いわば、包丁人や刀鍛冶みたいなものでした。ところが、明治の時代になると、様変わりします。近代国家に脱皮させようとしていた明治政府にとっての最重要課題は権威の確立でした。その結果、帝国大学医学部を卒業したエリートと、医師開業試験に合格した者以外は医者ではなくなったのです。
当時、医師国家試験はなく、代わりに医師開業試験というものがありました。祖母は19歳で上京。近代医学を学ぶために東京医学校で学び、開業試験に合格。日本でまだ40人足らずしかいなかった女医となり、故郷の一色町に高須医院を開業しました。
地方の貧しい村ともなると、農業だけでは食べていくことができず、水商売を始める女性も多くいました。そして、その中には少しでも稼げるようになりたくて「鼻を高くしてほしい」と望む人がいました。祖母が行っていた診療は産婦人科や耳鼻科、小児科ですから、美容外科のノウハウがあったわけではありません。しかし、何とか力になりたいと考えたようです。
祖母は四姉妹の3番目ですが、跡継ぎを命じられました。他の三姉妹は町でも話題の美人でしたが、祖母だけ鬼みたいな顔。美人であれば嫁のもらい手に事欠きませんが、不美人となるとそうもいきません。だから手に職をつけさせておこうと医学校へ行かされたのでしょう。実際、祖母はとても強い人で婿に取った祖父を追い出してしまい、自分の力で生きてきた。そんな経験を持つだけに、困っている女性を放っておけず、海外の文献を読み、見よう見まねで隆鼻術をしてあげていました。
祖母はまずワックス(蜜蠟)を鼻に注射したらどうかと考えました。ところが、ワックスが鼻の中で固まって高い鼻になっても、うっかり焚火にあたったりすると溶けてしまった。そこで、象牙を突っ込んでみたり、いろいろ研究したようです。いまとなれば考えられませんが、低い鼻が高くなればいいという時代ですから、患者は「鼻が高くなった」と喜んだそうです。
こうした経験もあってか、僕が親戚中で大顰蹙(ひんしゅく)を買った中、唯一祖母だけが「鼻を高くしたり、乳を大きくしたりする仕事ならワシもやっとった。その当時に比べれば、技術も進歩しているだろうから好きにやったらいい」と口添えしてくれました。
結局、祖母が擁護してくれたおかげで美容外科に進むことが許されました。ただし、地元には需要がないことが明らかでしたので、高須病院を続けながら名古屋に美容外科専門のクリニックを開くことにしました。