(本記事は、櫻井秀勲氏の著書『誰も見ていない書斎の松本清張』きずな出版の中から一部を抜粋・編集しています)

中期までの時代小説に名作が多い理由

誰も見ていない書斎の松本清張(3)
(画像=Stokkete/Shutterstock.com)

『小説日本藝譚』(一九五八年刊)は、評伝ではなく、あくまでも小説だが、名作中の名作として推したい。作者はこの作品で千利休、世阿弥など十人の芸術家(書籍化の際、連載中の「鳥羽僧正」「北斎」は外している)を描いている。

これ以外にも坪内逍遥を書いた『文豪』(一九七四年刊)、岸田劉生の晩年を描いた『岸田劉生晩景』(一九八〇年刊)などの天才芸術家を描いたものがあり、それぞれ筆が冴えている。

長篇の最高傑作は、週刊誌の連載としては二年八ヵ月という異例の長期にわたった『天保図録』(一九六四年刊)だろうか。時の老中、水野忠邦とその懐刀、鳥居耀蔵による天保の改革を巡り、壮大な陰謀絵巻が展開するが、その前に清張作品の場合は、年代別に並べていかないと、作者が何を考え、何を書こうとしたかが読みとれないのではあるまいか。

私は清張さんの作家としてのスタートから、すべての作品を身近に俯瞰する幸運に恵まれたが、中でも一九六二年(昭和三十七年)から一九六五年(昭和四十年)に最高の作品が書かれた、と思っている。筆力といい、構想、作品価値、枚数といい、頂上に達したのではないか。この時期以前は、昇り竜の勢いで駆け上ったのに対し、この時期以降は小説家としてより、文化人的活躍が多くなり、作品も外国もの、古代もの、宗教もの、政治ものがふえていったのである。

もちろんその中にも名作はあるが、なぜそうなっていったのだろうか?

新人時代からつき合っていた各出版社のすぐれた編集者たちが、ほとんど全員役職者になってしまい、各社とも若手編集者に交代したからなのだ。

そうなると〝清張さん〟ではなくなり〝清張先生〟として巨大な作家を目の前にするので、編集者も畏多くて、くだらないおしゃべりができなくなってしまったのだ。これはなにも松本清張に限らず、ほとんどの作家の作品が、初期から中期に傑作が揃っていることと無縁ではない。

私はノーベル文学賞受賞後の川端康成先生と仲よくなったが、この時期は他の出版社の編集者たちは怖がって、新たに原稿依頼に行くという人はいなかったのだ。

私も実際に川端先生に会ってみて、異常なほどの畏怖感を抱いたが、実際には、皇室と芸能人、若い女性の話となるとたいへん盛り上がった。

私はいつもそれらの話題をもっていくので、大喜びで迎えてくれるのだった。つまり、作家のイメージというのは、周りが「怖い大作家」にしてしまうことがあるということだ。

元に戻って作品群を見ると、昭和三十一年(一九五六年)の『野盗伝奇』(単行本の刊行は一九五七年)に始まり、『かげろう絵図』(一九五九年刊)、『異変街道』(連載一九六〇~六一年、書籍化は一九八六年刊)、『天保図録』(一九六四年刊)、『乱灯江戸影絵』連載一九六三~四年)と進み、一九六四~六五年の快心作『逃亡』(一九六六年刊)、『鬼火の町』(一九八四年刊)に至る、時代小説山脈の面白さがわかるのではあるまいか。

『乱灯江戸影絵』は当初「大岡政談」と題されて、朝日新聞夕刊に連載されたが、出だしの部分が不満だといって、昭和六十年(一九八五年)まで単行本にはならなかったものだ。それを加筆修整し、題名も変えたが、筆に勢いがある力作だ。

短篇連作でもこの時期に書かれた『彩色江戸切絵図』(一九六五年刊)は実にみごとで、中でも「山椒魚」は評価が高い。また家康から十一代将軍家斉までの大奥と側室を扱った、長篇連作とでもいうべき『大奥婦女記』(一九五七年刊)も初期のものだが、いまでも相当売れている。やはり読者は目が高い、というべきか。

これに対して昭和四十二年(一九六七年)に書かれた『紅刷り江戸噂』(一九六八年刊)以降、昭和四十六年(一九七一年)までは、時代小説としてはこれといって目立った作品はない。そしていよいよ晩年の娯楽大作『西海道談綺』(全五巻、一九七六年刊)にかかっていく。この一本に松本清張は、これまでの知識の集積をぶつけたといっていいだろう。私に全五冊の署名をしてくれたときの、得意そうな顔はいまでも忘れない。じっくり読んでいただきたい。

なおこの作品のあと、平成四年(一九九二年)に「江戸綺談 甲州霊獄党」がスタートしたが、作者の死去で未完に終わってしまった(のちに「小説新潮」二〇〇九年十二月号に遺稿とともに掲載された)。甲州ものの総決算だっただけに惜しまれてならない。

時代小説の復権

日本がアメリカとサンフランシスコ講和条約を結んだのは、一九五一年(昭和二十六年)九月である。その五ヵ月ほど前にマッカーサー元帥は解任され、アメリカへと帰っていった。

これによって、日本の言論はずいぶん自由になった、といっていいだろう。講和条約の発効は翌年の四月だったが、これにより全面講和は無理だったが、曲りなりにも独立国家に戻ったことになる。占領軍への批判も自由にとはいかなかったが、それでも、少しずつできるようになっていった。

時代小説の復権もこの頃だった。それまでは軍国主義を鼓吹する時代小説、封建主義を想起させるもの、さらには日本刀を使って、それを主たるテーマにするものなどは、小説だけでなく、時代ものの映画でも、禁止とはいわないが、強い制限を受けていたのである。

その中で村上元三の『佐々木小次郎』(講談社)だけが昭和二十四年、朝日新聞夕刊に一年間連載された。これは剣豪小説であり、マッカーサー指令に違反していると思われたが、朝日新聞という掲載紙の力だったのかどうか、出版界は垂涎の様子でこれを眺めていたといわれる。

こういった作品の事情は、朝日新聞に在籍中の松本清張としては、当然関心をもっていたと思われる。なぜなら、一九五〇年(昭和二十五年)に行われた「週刊朝日」の「百万人の小説」に応募した作品は「西郷札」だったからだ。

仮にこの作品が、数年前に書かれていたら、日の目を見たかどうかわからない。その点、作家のデビューには、時代という背景も重要なのだと思う。松本清張にしても『黒地の絵』(一九五八年刊)を初めとして、以後作品を通して、日本占領中の米軍に対して強い批判を加えていけたのも、時代が味方したからだと思う。

そしてそれは、この私自身にもいえる。もともと東京外国語大学のロシア語学生は、ラジカル思想の持ち主が多く、就職がむずかしいといわれていた。就職が有利な業種としては、外務省、商社、新聞社、放送局、出版社に限られていた、といえるかもしれない。

そんな中で、仮に就職できなければ、翻訳をやりながら小説を書いていこう、と結構のんきに考えていた節がある。実際、私は二十歳から二十一歳にかけて、短篇小説だけはずいぶん書いていた。これらの作品はいまでも保存しているが、青臭くて読めたものではない。

ただ大学構内には、共産党細胞も多くいたし、そうノンポリでもいられない。そこで集会のある日は、当時、上野公園内にあった国立国会図書館に行っては、歴史書を読み耽っていた。

当時この図書館には十万点ほどの図書があったが、中でも、平安朝時代の書物にすぐれていた気がする。戦時中に古代の朝廷、皇室、天皇制に関する書物を蒐集したからだと思う。学生運動から逃げなければ、生涯でこれほどのんびり歴史書に親しむことはできなかったろう。

そして、この時期の勉強と知識が偶然にも、歴史小説によって芥川賞を受賞した、二人の作家と結びつくことになったのである。私は運命主義者であり、現在、早稲田運命学研究会を主宰しているが、この偶然の運命だけでなく、何度も、出版界に行くことになる運命を経験している。

その中の一例だけあげるとすれば、先にも書いたように、十五歳の冬、私は太宰治と覚しき作家と数日を過ごしているのだ。

なぜかこの作家は自分の名前をいわなかった。私はもしかしたら、夫人ではない女性と一緒なので、名を隠しているのかもしれない、と思っていた。私はその空想に興奮して、眠れないほどだった。

昭和二十三年(一九四八年)の六月のことだった。私は外語大を受けるべく勉強していたが、新聞を見ると太宰治の情死のニュースが載っていた。このときの写真もまたボヤけていて、よくわからなかった。もちろん箱根の作家と女性を思い起こしたが、その確信はもてなかった。

私が箱根の作家が太宰であると信じたのは、五味康祐から、太宰治の遺体が発見された六月十九日を命日とした桜桃忌に誘われ、三鷹の禅林寺まで行って、大きく引き伸ばした太宰の写真を見たときだった。間違いなくあの男だった。昭和二十九年(一九五四年)、七回目の桜桃忌だった。

このとき、あの作家から「きみは出版社に進んでみませんか?」と、優しくいわれたのを思い出したのだった―。

誰も見ていない書斎の松本清張
櫻井秀勲(さくらい・ひでのり)
1931年、東京生まれ。東京外国語大学を卒業後、光文社に入社、大衆小説誌「面白倶楽部」に配属。当時、芥川賞を受賞したばかりの松本清張、五味康祐に原稿依頼をした。二人にとっては、初めての担当編集者となる。以後、遠藤周作、川端康成、三島由紀夫など歴史に名を残す作家と親交を持った。31歳で女性週刊誌「女性自身」の編集長に抜擢され、毎週100万部発行の人気週刊誌に育て上げた。松本清張の代表作の一つである『波の塔』は「女性自身」に連載されたものであり、それだけで部数が10万部伸びたほどだった。55歳での独立を機に、『女がわからないでメシが食えるか』で作家デビュー。以来、『運命は35歳で決まる!』『人脈につながるマナーの常識』『子どもの運命は 14歳で決まる! 』『老後の運命は54歳で決まる!』『60歳からの後悔しない生き方』『70歳からの人生の楽しみ方』『昭和、平成、そして令和へ―皇后三代―その努力と献身の軌跡』など、著作は210冊を超える。
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