本業を中心に1社数千万円~数億円の新会社を次々に設立し、日本で最も事業多角化に成功しているオーナー経営者・ヤマチユナイテッド代表の山地章夫 氏。父の会社を引き継ぎ倒産寸前となるも、現在では50社超の会社を次々と作り上げ、グループ総売上160億円企業、利益10億円、毎年10%以上の成長を続け、実質無借金経営という、卓越した経営手法が注目されている。

連邦・多角化経営
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本記事は、幹部の反乱・社内クーデター、新事業の失敗、縦割り組織の弊害など、自らの経験から、試行錯誤の末、導きだした多角化の経営ノウハウをあますところなく提示する著書『連邦・多角化経営』(税込14,850円、日本経営合理化協会出版局)の第1章、P25-34から一部を抜粋・編集して掲載しています。

目次

  1. 新事業ホームセンターの失敗
  2. 衝撃を受けたアメリカのライフスタイル
  3. 番頭経営からの脱却
  4. 限界を感じたマンパワー経営
  5. 書籍詳細
    1. 連邦・多角化経営

新事業ホームセンターの失敗

失敗
(画像=CHUYKO SERGEY/Shutterstock.com)

話は、私が28歳の時、東京で就職したタナベ経営を辞めて、父親が札幌で経営する建材卸の山地商事に入社した時から始めたいと思う。

札幌に帰ったのは、あくまでも私の意志である。父親からは一度も「会社を継いでくれ」と言われたことはなかった。経営コンサルタント会社のサラリーマンをやっていたが、自分で経営者をやりたくなり、近道だと思って実家の会社に入社させてもらったのだ。

当時、山地商事の売上は30億円、従業員は30人ぐらいいたと思う。30億円の売上と聞くと、そこそこの規模だが、建材を商社経由で仕入れて販売店に卸すという、流通の5段階の中間で存在価値が低く、営業利益が1000万円以下の年が多い、厳しい業界だった。

驚いたのが、入社した時「この業界は未来がない。回収も手形で得意先倒産のリスクが高い。おまえには何か新しいことをやってほしい」と父親から言われたことだった。

そのあと、山地商事の粗利益率が7%だと知って、その低さにさらに衝撃を受けたことを覚えている。

もちろん父親もこのままでは将来がないから、手形でなく現金で回収できる事業を探し、選んだのが本業の建材も扱えるホームセンターだった。私が入社した時には話が進んでいて、もうすぐホームセンターが完成するという時だった。

そういうタイミングで入社した私は、翌年、ホームセンターの店長に指名された。(自分で自分の仕事を選ばなかったのはこの時が最初で最後である)

私はDIYに興味がなく、ホームセンターの仕事はワクワクするものではなかったが、店長という責任を感じながら毎日夜遅くまで頑張った。しかし大きな赤字をつくって、4年後に撤退せざるをえなかった。父親が着手したとはいえ、私がはじめてかかわった新事業は見事、失敗に終わったのだ。

今思うと、本業とまったく違う業種の事業をその経営ノウハウも知らずに、素人がいきなり始めたことが失敗の大きな原因だった。「小売業は立地がすべて」といわれる業種なのに、立地も悪かったし、ホームセンターとしては規模が小さすぎた。

この失敗の経験を今も教訓としている。まったく知らない業種の新事業を始める時は、まずはフランチャイズに加盟したり、代理店になって経営ノウハウを学ぶことから始めるのだ。

衝撃を受けたアメリカのライフスタイル

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(画像=PIXTA)

しかし、私には本業に徹するという選択は残されていなかった。

じつはホームセンターの店長を務めながら、私は私で新事業を探していて、アメリカの住宅建材を輸入して販売する貿易事業をやってみようと、少しずつ準備していた。

それには、一つの衝撃的な経験があったからだ。大学時代、カナダとアメリカを3カ月間、計画を立てずに一人旅をした時のことだ。行ってすぐにホームシックにかかった私は、日本食が恋しくて日本食レストランに入った。

たまたま隣に座っていた現地の夫婦と仲良くなって、「ノープランの旅なら、うちに泊まりにおいでよ」と親切に言ってくれたのをきっかけに、夜行バスに乗って100キロ離れたその夫婦の住む町まで行き、1週間ほど泊まらせてもらった。衝撃を受けたのは、その家族のライフスタイルの圧倒的な豊かさだ。

その家族の主人は私の父親と同じ、中小企業の社長だったが、家は豪邸で室内には暖炉、屋外にはプールがあり、子どもは高校生の男の子と大学生の女の子の2人、そして大型犬1匹を飼っていた。驚いたことに、高校生の息子は自分の車を2台も所有していた。家族でとるディナーは、暖炉で薪が燃える広い部屋で、照明をおとし、落ち着いた、いい雰囲気の中で家族全員でとる楽しい食事、まさにアメリカ映画に出てくるようなシーンだった。

私は到着早々、「すごい!なんて豊かな生活なんだろう!」と感動し、この時の衝撃がアメリカの住宅建材を輸入する貿易事業、そして翌年、その輸入建材を使って住宅を建てるジョンソンホームズの創業につながっていくのである。

現在、ジョンソンホームズはヤマチユナイテッドの中核事業会社に成長している。もし私が32歳の時にジョンソンホームズを創業していなかったら、今のヤマチユナイテッドはなかったと思う。

番頭経営からの脱却