会社をやめて投資収益で悠々自適に暮らしたい。そのような目的から、投資に興味を持った人も少なくないだろう。「このまま会社勤めを続けてもストレスが多いし、先も見えている。夢がない。この低位安定の循環から抜け出したい」(ある40代の大企業サラリーマン)という声も聞こえてくる。
筆者は、「サラリーマン経験がない」という例外的な道を歩んでおり、現在は投資収益で生計を立てている。そのような特殊な立ち位置から見て、投資家、自営業、サラリーマンなど、どのような仕事を選ぶべきかについて述べていきたい。
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サラリーマンの社会的な位置づけ
サラリーマンは良いのか、悪いのか。そのようなミクロな話題の前に、マクロの話をしてみたい。「日本経済」というゲームのプレイヤーになったつもりで俯瞰的に考えてみてほしい。
現代の日本社会を成立させるには、公務員だけでなく、財閥企業、金融機関、医師など、インテリ層といわれるオフィスワーカー、そして、工場や農場で働くブルーカラーが必要不可欠だ。従って、国民の役割は納税だけでなく、1人ひとりが社会の歯車としての役割を担い、社会全体を動かしていくことに他ならない。筆者もその歯車の1つだ。
そして、日本の教育システムは、国を回す人員を育成するために存在しているといえるだろう。日本の教育システムは18歳までに「エリート」と「非エリート」を選別する。エリートは知的労働に、非エリートはそれ以外に従事させるというわけだ。国の視点で見れば、この教育システムによる人材選別のおかげで適材適所が図れている。少し遠回りした話から始めたが、そのように見ると、社会とはよくできた仕組みだ。
建前上は、人々は自由な意志で好きなように生きられることになっているが、誰もこの日本の社会システムから抜け出すことはできない。あくまで、この枠の中で自由に泳ぐことが許されるに過ぎない。いわば箱庭ゲームのようなものだろう。その中で、「働かざる者、食うべからず」が日本の労働に対するポリシーであるならば、労働は義務というより黙示的な強制といった方が理解しやすい。
その中で、日本社会で多くの勤労者に与えられる待遇は、けっして十分なものではない点は重要だ。生活に不足はないが余裕もなく、自由に休むことは許されない。その点、農具がコンピューターに変わっただけで、「農奴」「百姓は生かさず殺さず」と言われた時代から、労働環境と報酬体系は大きく変わっていないように思う。
エリート層といえどもプレミアムエコノミーの域を出ない理由
「20代で生涯賃金に匹敵する額を稼いで、あとは働かない――」そのような道を選ぶ者ばかりでは国が成立しない。そのため、国民は生涯働き続ける前提で社会制度が設計されている。したがって、エリート層といえども休むことは許されない。日本の労働環境を管理者側の視点から見ると、このように説明することはできないだろうか。
エリート層には、平均的な国民よりも質の良い衣食住が与えられることは間違いないが、日本国内には、「高収入・高学歴のエリート層」にもアクセスできない品々が多数あることからは目を背けないほうが良い。たとえば、六本木ヒルズの居住者や、夜の銀座で豪快に遊ぶ人にエリートサラリーマンがいたという話は耳にしたことがない。
そう考えると、同窓会などの小さなコミュニティでは、大企業のエリート層はファーストクラスの人々のように見えるが、社会全体で見ると、実はプレミアムエコノミー程度の経済的自由しか与えられていないといえる。
では、誰が六本木ヒルズに住んでいて、夜の銀座で豪快に遊んでいるのか。ここから先は筆者の独断と偏見だが、日本の経済社会の全体像はおおよそ次のようになっている。社会の経済的階層を飛行機の座席に見立てて考えてみよう。
・プライベートジェット=裕福な政治家など。お金があるだけでなく、人や組織を動かせる特権階級
・ファーストクラス=地方の豪商、大地主、IPO長者、芸能人、有名人など。一般人の生涯賃金を超えるものを楽々と買える
・ビジネスクラス=FIREを達成した個人投資家。成金といわれる中小企業社長など。働かなくても生きられるが、「ファースト・クラス層」と比べると購買力は低く、「プレミアム・エコノミー層」よりも社会的評価が低い
・プレミアムエコノミー=士業など社会的な肩書きがあり、エリートと呼ばれ、タワーマンションなどに住む人。ただし、働き続ける必要があるので休めない
・エコノミークラス=平社員と呼ばれ、郊外の普通のマンションに住む人
ビジネスクラスの人々は、肩書きとしては無職や無名であることも多く、必ずしも世間から尊敬される人たちとはいえないが、部長や先生と呼ばれるエリート層の役職者より生活水準は良いという「逆転現象」が見られる。この事実は「士農工商」という徳川幕府による身分制度を思い出させる。士農工商は身分制度というよりは政府のプロパガンダに近いだろう。その中で、農民よりも、裕福な商人を低位の階層に置かれなければならなかったのはなぜか。
そうでなければ、賢い若者ほどアフェリエイターや博打打ちばかりを目指し、優秀な技術者がいなくなって国が成り立たないからだろう。そうならないためには、「儲からなくても国を回すために重要な仕事」は人々の憧れでなければならない。そう考えると、戦後日本において、士業やエリートサラリーマンへの憧れは誘導的に作られたものかもしれない。
優秀な学生でもビジネスクラスには乗れない
優秀な学生でも、敷かれたレールの上で高得点を出し続けるだけであれば、プレミアムエコノミーの頂点までしかたどり着かない。その理由は、日本の教育には「仮想通貨市場を制してユニコーン企業になれ」といった突然変異的な目標が内包されていないからだろう。日本の教育で100点を取り続けても、発明家や起業家になれるはずがない。
ビジネスクラス以上を目指すのならば、仮にアウトローと批判されても、日本の社会システムで定義された既定の路線から外れることが必要だ。「生かさず殺さずの罠」ともいえる低位安定の均衡を抜け出す最初のステップは、今の均衡を壊すことだ。
鶏口となるも牛後となるなかれ
それでは、「今の均衡を壊すこと」とはどのようなことだろうか。それは、時給や月給で働くことをやめて、歩合で仕事をすることだろう。筆者の調べでは、年収2,000万円以上を得るサラリーマンの大半は歩合で働く人だ。大企業で年収2,000万円をもらい続けるのは至難の業だが、自営業や歩合でそれ以上を手にするプレイヤーは数多く存在する。
大企業という「牛」の後(尻)となり、月給で働いていると、その会社の利益が数百億円あろうとも、その分け前は得られない。その代わり「最低限これだけ払っておけば辞めないだろう」という水準の給与が支払われることになる。そうではなく、自営業や投資家という「鶏」の口(頭)となり、自ら仕事をすれば、実績に応じた利益の分け前を得ることができる。後者の方がアップサイドは大きいはずだ。
エコノミークラスからは早く降りろ
先日、とある大手企業の人事担当に採用の本音を聞く機会があった。曰く、「本社の新卒採用は、上位大学出身者と中堅大学出身者で7~8割。下位大学出身者は子会社への配属が多い。ずっと勤務すれば、本社勤務なら年収1,000万円、子会社なら700万円に到達する。個人成績による給料の差は少ない」とのことだ。典型的な昭和の大企業の評価方法といえる。
このような企業において、年収1,000万円は上位の報酬であり、プレミアムエコノミーのエリート層なのは間違いない。しかし、日本でトップクラスの経歴にもかかわらず、「経済的な見返りはこの程度か。頑張ってきたつもりだが、こんなものか」と自らの報酬に疑問を呈するケースは多い。それでも「ここで会社を辞めたら次の仕事が……」「家族が……」という「生かさず殺さずの罠」にはまり、均衡を崩す行動までは踏み出せない人が多い。
一方、もともとエコノミークラス以下の座席しか与えられないならば、そこから先の見通しが明るくないことは目に見えている。投資効率の観点でいっても、向いていない仕事に多くの時間を投下して、人生を賭けることほどリターンの悪い投資はないだろう。
その事実を理解できれば、躊躇なく社内の出世レースから離脱できるのではないか。そして、改めて別の道でビジネスクラス以上を目指すのはどうだろうか。自営業や投資家の良いところは、学歴や職歴が不問であることだ。組織になじめずヒットを打てなかった窓際社員や、就活で大企業に入れなかった学生ほど、逆転ホームランを狙いやすいだろう。