本記事は、片田智也氏の著書『ズバ抜けて結果を出す人だけが知っている 感情に振り回されないための34の「やめる」』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています
「思った通りになる」という期待を、やめる
イライラや怒りは、いったいどこから湧いてくるのでしょうか。
ひと言で言えば、「自分自身の期待から」です。
たとえば、安い居酒屋で接客マナーが悪くてもあまり腹は立ちません。
でも、それが高級レストランだったらどうでしょう。支払い金額に比例し、期待も膨らみます。その分、イライラや怒りが湧いてくるのではないでしょうか。
「期待と現実の差」、イコール「イライラや怒りの質量」です。
「だったら現実の方、接客マナーが悪い店員だって原因でしょ?」
その通り。ですが、それは自分次第で何とかできるものでしょうか。
イライラや怒りは「期待」と「期待外れの現実」の共同作業によるもの。
ですが、後者は権外。操作しようとすれば、より感情が乱されてしまいます。イライラや怒りを抑えたければ、意識を向けるのは「自分の期待」一択なのです。
では、改めて、イライラと怒りについて定義しておきましょう。
イライラとは、「思い通りにことが進まず、不安が募っている状態」です。
たとえば、飛行機が定刻になっても一向に飛ぶ気配を見せない。「スケジュールが狂ってしまう……」と、不安からイライラを感じるのは普通のこと。
一方、怒りとは、イライラの先にある、よりアグレッシブな感情です。
怒りは、不安に耐えられず、「思い通りに誰かや何かを動かそうとする意思」を指します。CAさんに「いつになったら飛ぶんだよ!」と怒鳴るかもしれません。
思い通りにならない不安が外に漏れてしまい、本来、コントロールできないはずの他人や結果を思い通りに動かそうとする。その手段が、怒りなのです。
イライラや怒りに「元栓」があるとすれば、ココでしょう。
想定や計画、予測、先読み。これらが仕事に必要なのは当然です。だからといって、「思った通りになる」と、過度な期待をしてはいないでしょうか。
電車やバスが定刻通り来るか。部下が指示通りに仕事をするか。取引先がすぐ返信するか。上司が正しく評価するか。プロジェクトが計画通り進むか。
いずれも自分次第ではありません。少しのズレで歯車が狂ってしまう不確かなものばかり。そこに「こうなるはず」と期待を寄せるのはリスクが高すぎます。
期待が大きければ、現実との差、イライラの質量も大きくなるからです。
現実に期待するとは、イライラするかどうかを自分以外に委ねるということ。そんな姿勢で過ごしていれば、ことある毎に振り回されるのも当然でしょう。
ならば、他人や結果、ものごとに期待などしない方がよいのでしょうか。
大丈夫。そんなことはありません。
実際、計画は立てなくてはいけませんし、想定も、予測も必要です。
「こうなったらいいな」と、希望を持つぐらいならアリでしょう。
そのとき同時に、計画や想定が一瞬で壊される心づもりをしておけばよいのです。重要なのは、いつでも「想定外を想定しておく」こと。
思った通りにことが進まない場合は、息を吐いてからこう言いましょう。
「大丈夫、問題ない、これも想定済みだ」。
想定を外れた。でも、それも想定のうち、と、自分を安心させるのです。
想定外を想定するクセがつけば、結果が思った通りでなくても、動じなくなります。イライラや怒りに意識が囚われてしまうこともなくなるでしょう。
まとめ 過度な期待はやめて、「想定外のこと」が起きるのも想定しておく
「こうあるべき」に固執するのを、やめる
「戻ったらとりあえず報告するべきだろ」「電話はやっぱり若い人から先に取るべきでしょ?」「社員なんだからどんどん昇進を望むべきだよね」。
何気なく言ってしまいがちな「であるべき」という言葉。ですが、イライラや怒りをマネジメントする上で、「べき」は、十分注意しなくてはなりません。
「べき」と言えば言うほど、イライラする機会が増えるからです。
「べき」とは、要するに「暗黙のルール」のこと。明確なルールと違って、なんとなく共有されているだけの、ふんわりしたものがほとんどです。
たとえば、「それぐらい自分で決めるのが常識だよね」「十分前に集合しておくのが普通でしょ?」「自分から謝るのが当たり前じゃないかな」など。
常識、普通、当たり前……。いずれも「べき」が潜んでいます。
一昔前なら、どこの職場にも、そういった「共通のべき」というものがありました。ですが、ここ最近は、それが無くなりつつあります。
一番の理由は、「価値観の多様化」が進んだことでしょう。
「価値観の多様化」とは、「多様なべき」を許容することを意味します。
極端に言えば、一つの共通ルールが、一人ひとりのマイルールに置き換わるのです。もし、それが交通法規の世界で起きたなら何が起きるでしょうか。
たとえば、「黄色点滅の信号」は、進むべきか、止まるべきか。それぞれがマイルールで判断することになります。事故が増えるのは当然です。
職場から「共通のべき」が消えつつあるのもそれと同じこと。「べき」同士がぶつかり合う、人間関係の事故が増えるのも仕方がありません。
たとえば、あなたがこういった「べき」を持っているとします。
・べき(期待)……「終業後でも会社の人間関係にはつきあうものだ」。
でも、部下が、その「べき」に同意するかどうかは、相手次第です。
・である(現実)……「いや、プライベートな時間なので帰ります」。
「こうあるべき」というのも「思った通りになる」つまり、期待の一種。「べき」が多ければ多いほど、イライラを感じる機会も増えるでしょう。
「べき」とは「地図のようなもの」と考えてください。
地図を見ながら、現地を歩く。すると、アレ? 地図にない道が存在することに気がつきました。地図と現地、あなたはどちらを正すのでしょうか。
「ここに道があるのはおかしい!」と言って現地を変えようとする人などいません。
「なんか間違ってるね」と、地図の方を訂正するはず。なぜかと言うと、現地は変えられませんが、地図の方なら自分次第で変えられるからです。
「べき(現実の地図)」と「である(現実そのもの)」が異なる場合も同じ。
他人の考えは権外。こちらが好きに動かすことはできません。変えられない現実よりも手元の地図、「べき」を正した方がはるかにラクなのです。
あなたの「べき」が通用しない事態に遭遇したら、「なるほど、そうなんだね」と、ありのままの現実、「である」の方を受け入れてください。
「こうあるべき」は、時代や文化で変わります。世代によっても違います。同じ人でも立場で変わるかもしれません。「べき」は無数にあるのです。
自分の「べき」に固執せず、「そうである」という現実を優先しましょう。そうすれば、期待と現実の差にイライラを感じることも減るはずです。
まとめ 「べき」にこだわらず、目の前の現実に「そうなんだね」で納得する
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