本記事は、片田智也氏の著書『ズバ抜けて結果を出す人だけが知っている 感情に振り回されないための34の「やめる」』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています
「やる気を出そう」とするのを、やめる
結果を出すのに行動は欠かせません。行動するのに、やる気が重要なのも事実。だからといって、ムリにやる気を出そうとしてはいないでしょうか。
やる気というのは「気」ですから、気持ちや気分、感情の類です。
自分次第で、出したり引っ込めたりできるものではありません。
やる気も権外。意思でコントロールするような代物ではないのです。「やる気を出そう」というのは、「よし今日は晴れにしよう」と言っているのと同じこと。
そもそも、やる気が湧いてこないのは、なぜなのでしょうか。
答えはシンプル。やりたくないから。以上です。
この手のことを難しく考えてはいけません。「やるぞ! という気持ちがない」、それを短縮して「やる気がない」と言っているだけなのです。
と言うと「いや、本当にやりたいんです、でも、やる気が出なくて……」。
そう反論されることがあります。
それは、「走りたい、でも、走る気持ちがない」と言っているのと同じ。日本語としてちょっと変ですし、それはもはや、言葉遊びの領域です。
やる気が出ない。イコール、やりたくない。まずは本音を認めてください。
やる気とは「出すもの」ではなく「出るもの」です。
たとえば、サイフやスマホのような貴重品を失くしてしまったとします。
「よーし、探しにいくぞ!」と、わざわざやる気を出すのでしょうか。そんな人はいませんね。自分にとって重要なことは自然と体が動いてしまうもの。
好きなこと、興味があること、意味を感じることも同じです。
たとえば、ずっと延期し続けているタスクが一つや二つ、ないでしょうか。
その一方、メモすら取っていないのに何を差し置いても「即、片づけてしまった」というタスクもあったはずです。それだけ「やりたかった」のでしょう。
重要と思うこと、好きなことをやるのに、やる気など不要。
そうせずにはいられない、だからついやってしまうのです。そういった結果的、かつ自然発生的なものこそ、本来あるべき「やる気」なのでしょう。
東京大学の脳科学者、池谷裕二教授はこう言っています。
「やる気という言葉は、やる気のない人によって創作された虚構」。
確かに、つい動いてしまった人に「やる気」という概念は必要ありません。それが必要なのは、「やる気が出ないことを理由に止まっていたい人」だけでしょう。
平たく言えば、「やる気が出ない」とは、やらない口実ということです。
大切なのは、少しずつでも「自然とやってしまう何か」と自分の仕事を一致させていくこと。それらが重なれば、もうやる気で悩むこともなくなります。
もちろん、完全一致することはないでしょう。重要だと思うこと、好きなことを仕事にしても、「やりたくない、でもやらなければ……」といったことは必ず残ります。
そんなときは、機械になったつもりで、無心で手をつけてください。
やる気がなくても、資料を取り出したり、ペンを手に取ったり、文字を打つことはできます。それに、やってみると、だんだんこう思えてくるもの。
「せっかく手をつけたんだし、このまま終わらせてしまうか」。
やる気を出すのではなく、動くことで自分を「その気」にさせましょう。
「やる気が出ないこと」そのものは、大した問題ではありません。本当の問題とは、「それを理由に立ち止まってしまうこと」なのです。
まとめ 「やる気待ち」ではなく、とりあえず手をつけて自分をその気にさせる
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