本記事は、片田智也氏の著書『ズバ抜けて結果を出す人だけが知っている 感情に振り回されないための34の「やめる」』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています
過去に原因を求めるのを、やめる
「クヨクヨしてもムダ」「後悔したって意味がない」。そんなことはわかっています。頭ではわかっている。なのに囚われてしまうことが問題なのです。
なぜ私たちは、終わった過去を引きずってしまうのでしょうか。
過去に意識が奪われるのは、今がうまくいっていないから。目を向けるべきは、過去ではありません。問題は今ここ、必ず目の前にあるはずです。
「何か仕事でうまくいかないことがある」としましょう。
すると人は、そんな結果と対になる原因があると考えます。「何が原因でこんな結果になったのか?」パッと思い浮かぶ選択肢は、大まかに分けると次の4つです。
(1)他人、(2)環境、(3)過去、(4)自身の能力不足。さて何のせいなのか。
正解はありません。ですが、最適解を挙げるなら「(4)自身の能力不足」一択。それ以外はすべて権外です。選んだところでコントロールできません。
ではもし、「(4)自身の能力不足」を認められなければ?
「(1)〜(3)のいずれかが原因」という結論になるでしょう。
他人や環境のせいにするほど感情的ではない。でも、能力不足を直視する勇気はない。本気で向き合う一歩手前。過去に囚われるのはそんなときです。
悔いの残る過去。私の場合は、視覚障害を負ったときのことを思い出します。最初はうまくいかないことだらけでした。「何をしてもうまくいかないのはなぜ?」
「こんな病気にならなければ」「もっと早く治療していたら」。
変えようがないとわかっていながら、何度も反芻したもの。ですが、そんな過去に意識が奪われるのも今では年に一度あるかないか。うまくいかないのはなぜ?「ハイ、答えは(4)、自身の能力不足」と即答するため、過去を原因に据えるヒマがないのです。
では、なぜ昔の私は「(4)自身の能力不足」を選べなかったのか。それすなわち「自己否定すること」と、どこかカン違いしていたのでしょう。
他人や環境、過去が悪いわけじゃない。となると「うまくいかないのはすべて自分が悪いからだ……」となります。否定のナイフによる自傷行為。
だとすれば、(4)を選ぶのに躊躇するのも当然でしょう。
たとえば、自転車に乗る練習をイメージしてください。
何度やってもバランスを崩してガシャンと倒してしまう。
うまくいかないのは、乗り手が「悪い」からでしょうか。いえ、「よい悪い」という概念の出番はありません。ただ技術が身についていない。それだけです。
能力や技術、知識が足りない。「イコール悪」なはずがありません。問題と向き合うのに、誰かや何かを悪者にする必要はどこにもないのです。
ストア派の哲学者、エピクテトスはこう言っています。
「自分が不幸な場合に、その原因となった他人を非難するのは、無教養な者がすることである。自分自身を非難するのは教養の初心者がすることである。そして他人も自分をも非難しないのが、教養のできた者がすることである」。
過去は権外。あがいたところで変えることはできません。
でも、今が変わると、過去への解釈がガラリと変わります。「よい悪い」と切り離し、思い切って「(4)自身の能力不足」を選んでみてください。
湧いた不安は行動を促し、行動はいずれ結果を連れてきます。「あの過去のおかげで今がある」、そう思える未来をつくるのは、今ここの選択です。
まとめ 過去に原因を求めるのをやめて、「(4)自身の能力不足」と向き合う
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