本記事は、菅谷信雄氏の著書『あなたの経営力10倍アップの極意 大激変の時代を勝ち抜く最強の経営の羅針盤』(セルバ出版)の中から一部を抜粋・編集しています

先見力の重要性

予算,社長
(画像=ryanking999/PIXTA)

大激変の時代、経営者として1年後の予測のみならず、中長期の予測をし、それにどのように対処していくかが企業生き残りのために必要不可欠です。この対応を誤ると、時代の大波にのみ込まれ、あっという間に転覆と言うこともあり得ます。そのときの切り口として、これまでの経営書にない重要な視点に触れてみたいと思います。

マスコミ情報はかなり偏っています。フェイクニュースも多いです。したがって、マスコミ以外の情報を仕入れ、自社の経営判断のために駆使していく態度が求められます。

私が社会人になってからの50年間、第1次、第2次石油危機、日本列島改造ブーム及びその終焉、バブル崩壊、阪神大震災、リーマンショック、東日本大震災、そして、今回のコロナショックと実に様々な体験をしてきました。

それでは私がこれらの大事件をどのように対処し、乗り切っていたのかを解説したいと思います。

(1)時流を読む

私が三井物産の国内の鉄鋼部門に異動したのは、昭和50年(1975年)でした。商社のことをコミッションマーチャントと言われていた時代でした。

国内の鉄鋼営業を3年間経験しました。詳細は省きますが、3年間の営業経験から鉄の国内商売の将来性はないと実感しました。事実、鉄の国内商売は縮小の一途を辿り、子会社を創って、そちらに移管しました。

次に石炭部に異動し、2年半の勤務の後、カナダ三井物産で新規炭鉱開発の事業を中心とした石炭の輸出ビジネスに従事していました。

当時は、「鉄は国家なり」と言われた時代でした。しかし、中国を始めとする発展途上国の鉄鋼産業が急成長し始めていた頃でした。そこで、私は日本の鉄鋼産業の将来はないと判断しました。

その頃中曽根内閣のときで、通信の自由化をすることが決定し、電電公社を民営化してNTTとなりました。

三井物産でもこの動きに呼応して、情報産業部門を新設することになりました。その情報を聞き、私は当時のカナダ三井物産社長に、新設の情報産業部門への異動を直訴しました。もし、ノーなら三井物産を退社する覚悟で臨みました。

幸い同社長にはOKしていただきました。そして、1986年11月情報産業部門の情報通信事業部に異動しました。

もし、このとき鉄鋼部門に残っていたら、私は他の物産マン同様定年まで三井物産で勤務していたことでしょう。あれから40年近く経ちますが、あのとき決断してよかったと実感しています。

(2)バブルの崩壊を予測

私はカナダ駐在(カルガリー市)のときにミニバブルを経験しました。赴任当初、物価が上昇し、家賃が毎月上がる異常事態を経験しました。普通金利がなんと19%という異常高でした。しかし、3年後にバブルが崩壊し、毎月のように上昇していた家賃が下落に転じました。そして、住宅手当に5万円程度自己負担すれば、カルガリー市内の超高級マンションが借りられる水準まで下がってきたので、いい思い出をつくろうと思い切って借りることにしました。

さて、帰国後、日本はバブル景気でした。ピーク時新宿西口のビル街の家賃が坪10万円、保証金100か月に高騰していました。仮にわずか10坪程度の事務所を借りる場合でも、月額家賃100万円、保証金1億円です。こんな異常に高い家賃の事務所を一体誰が借りるのだろうと思っていました。

当時は外資系の企業が日本にどんどん進出していたので、外資系企業が主なターゲットでした。しかし、外資系企業は、儲からなくなれば撤退します。

私はバブル景気で強気の三井物産の不動産部門にバブル崩壊の警鐘を鳴らしたのですが、「他人の商売に水を差すな」と反発を買いました。

その後は、皆さんご存じの通り三重野日銀総裁によるバブル潰しが実施され、それ以来日本経済は政府の政策の失敗続きで、立ち直っていません。何もバブル潰しなど意図的に実施しなくても、バブルは崩壊していたと思います。

日銀によるバブル潰しは今でも最大の失敗作と思っています。

(3)自分の強み、適正能力の発見

情報通信事業部に異動して直ぐにテレマーケティングの新会社を創ることになり、私がそのプロジェクトマネジャーに抜擢されました。それまで鉄鋼部門にいた私だったので、新会社創りは全く未知の分野でした。

しかし、新会社もしもしホットラインの創業と営業担当役員としての出向経験により、私自身の新たな能力を発見しました。この創業経験は、エレベーターに例えるなら、1階から最上階まで上ったような感覚でした。

私自身、新たな目的と目標を発見すると、それに向かって猪突猛進していくタイプということがその経験を通じてわかりました。しかし、この能力は一橋大学受験の時に現れていました。

新たな目的とは、通信の自由化の下、高度情報化社会が進展していく。その中のテレマーケティング業界でトップ企業となり、会社及び社会に貢献していくことでした。目標は、新電電のサービスが開始する1987年9月7日以前のできるだけ早い時期にテレマーケティングの新会社を創ることでした。

もしもしホットラインの創業経験は、ベンチャー起業家としての私の魂に火をつけました。そのときに身につけた様々な能力が、その後の自分の強みとなっていきます。それは序章で書いた英語力、人脈力、営業力、仕事力、経営力、コーディネイト力等です。

中小企業の社長には、大激変の時代に会社の生き残りと存続をかけて新たなチャレンジをしていただきたい。そのとき新たな自分の強みや適正能力を発見するかも知れません。それがあなたの力となって蓄積されていきます。

あなたの経営力10倍アップの極意 大激変の時代を勝ち抜く最強の経営の羅針盤
菅谷信雄(すがや・のぶお)
昭和24年生まれ。高校2年生の時に、「世界を股に掛けるビジネスマンになる」ことを決意。その夢を実現するために一橋大学商学部マーケティング専攻、卒業して三井物産に入社。31歳のとき、カナダ三井物産駐在により、「世界を股に掛けるビジネスマンになる」という夢は実現。カナダから帰国後の38歳のときに企業内起業家として東証一部上場企業の㈱もしもしホットラインをゼロから立ち上げる。10年後、その経験を活かし、1997年5月同社を早期退職。退職後、世界最小の総合商社、有限会社マーキュリー物産(資本金1,000万円)を創業。その後25年間で18社に数千万円を投資。うち1社が上場。現在も、シニア事業家として現役続行中。「生涯現役社会」構築の一環として、シニアとシングルマザー、ファーザーが協生するシェアハウス「ユートピア館」を本年末に完成予定。将来はFC化も検討。事業承継することで1万棟建設を構想中。

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