本記事は、齋藤孝氏、射手矢好雄氏の著書『BATNA 交渉のプロだけが知っている「奥の手」の作り方』(プレジデント社)の中から一部を抜粋・編集しています。

「交渉に負ける」は存在しない

交渉,握手
(画像=ASDF/stock.adobe.com)

交渉は勝ち負けではなく、互いの〈利益〉の最大化を目指すもの ── 。この原則は〈BATNA〉思考において重要なポイントですから、少し掘り下げてみたいと思います。

わたしが、ビジネスで数々の難しい交渉をこなしてこられたプロフェッショナルである射手矢先生から学んだのは、相手とうまく〈合意〉できなかったときに、それを「負け」ととらえない姿勢です。わたしはこの姿勢こそが、射手矢先生のメンタルタフネスにつながっていると見ています。

現実には、交渉事はうまくいかないことも多いと先生はいいます。でも、それを「負け」ととらえず、かといって「負けていない」ともとらえない。大切なのは、「交渉がうまくいかないことは起こり得る」と見る客観的姿勢なのです。

そのような観点で、自分の身のまわりのものごとまで、あたかも交渉事のようにとらえてみると、どうでしょう。変に自分を否定せず、冷静かつ合理的に目の前の問題と向き合うことができるはずです。

例えば、好きな相手に告白して断られたとしましょう。すると、「あなたには魅力がない」といわれたような感じがして、まるで全人格を否定されたような気持ちになるものです。

でも、もしかしたら、相手にはすでにパートナーがいたのかもしれません。いまのパートナーと付き合い続けることが相手の〈利益〉であるならば、互いが〈利益〉を得られる〈合意〉に至るのは不可能といえます。その場合、断られてしまったのはあなたの能力や魅力とは関係ありません。つまり、自分に対する否定ではなく、単に「相手の事情があった」だけに過ぎないのです。タイミング、相性、価値観などがずれていただけということもあるかもしれません。

自分を否定されたわけでもないのに、すべてを「負け」ととらえて自己否定することは、基本的にどんな場合でも避けたほうがいいと思います。

もうひとつ、仮に受験というものを、自分が差し出す能力と、相手が要求する課題とのあいだで、うまく〈合意〉することを目指す交渉としてとらえてみましょう。すると、交渉がうまくいかず〈合意〉できなかったとしても、それを「負け」ととらえなければ、結果を冷静に受け止めて、そこから学ぶことができるはずです。

〈合意〉できなかったのなら、様々な学びを得たうえで「また挑戦する」という〈BATNA〉を切ればいいだけのことです。

わたしも大学入試に落ちたことがあるのでよくわかりますが、当時のわたしが持っていた交渉材料はよくないものでした。なぜならわたしは、「好きな教科しか勉強しない」という傲慢ごうまんな態度を取っていたため、好きではない教科が苦手教科になっていたからです。

でも、それによって〈合意〉できなくなってはじめて、「相手の課題に応えるのが入試なんだ」と身をもって学びました。幸運だったのは、わたしは未熟だったにもかかわらず、そこで自分を否定せず、「単なる戦略ミスだった」と反省できたことでした。そうして交渉下手を認めたうえで、浪人という〈BATNA〉を切ったわけです。

いま思うと、この経験によって、わたしはひとつ大人に近づけたような気がします。

このように、あらゆるものごとを交渉ととらえるのは、少々ビジネスライクな感じがする人もいると思いますが、様々なものごとを「合理的な交渉事」ととらえることで、状況を正しく認識することができ、人間関係を壊さずに済むメリットもあります。

なぜなら、「負け」ととらえて自分を否定してしまうと、その恨みや怒りが募って、目の前の相手や社会に向けてしまう場合があるからです。これは社会のなかで生きていくことを、つらく危険なものに変えてしまう態度です。

だからこそ、すべてのものごとをいったん交渉ととらえることで、ものごとを合理的に考える姿勢がポイントになります。合理的な思考のいい点は、なにより〝感情同士の戦い〟にならないところです。

うまく〈合意〉ができないとき、人間はどうしても感情的になって、人間関係にしこりが残る場合もあります。しかし、お互いが合理的に考えて交渉すると、〈合意〉できなかったのは、お互いの合理的判断によって導かれた結論ですから、わざわざ感情が傷つくことはないのです。

難しいのは、特に日本社会では人間関係が「情」で動く面が多く、ビジネスではそこに上下関係も強い圧力として加わるため、人間関係が感情のもつれに絡め取られがちな場合が多いことです。人間関係を気にして不利な条件をのんでしまったり、断る余地がない追い込まれ方をされたりすることも往々にしてあります。

しかし、そんなときこそ、伝家の宝刀〈BATNA〉を抜くときです。むしろ、そうしたほうが人間関係を壊すことなく、お互いに合理的な判断で〈合意〉しないことを選べるでしょう。

日本ならではの「情」でつながるよさもありますが、〈利益〉を達成できないのに我慢して関係を続けるのではなく、「無理なものは無理」と言い合える環境にあるのが成熟した社会なのだとわたしは思います。

そして、それはまた、これからの日本に必要な成熟だと考えています。

BATNA 交渉のプロだけが知っている「奥の手」の作り方
齋藤孝
1960年、静岡県に生まれる。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒業後、同大学大学院教育学研究科博士課程を経て、現職に至る。『身体感覚を取り戻す』(NHK出版)で新潮学芸賞受賞。『声に出して読みたい日本語』(毎日出版文化賞特別賞、2002年新語・流行語大賞トップテン、草思社)がシリーズ累計260万部のベストセラーになり日本語ブームをつくった。著書には、『読書力』『コミュニケーション力』『新しい学力』(すべて岩波書店)、『雑談力が上がる話し方』『話すチカラ』(ともにダイヤモンド社)、『大人の語彙力ノート』(SBクリエイティブ)、『人生の武器になる「超」会話力』(プレジデント社)、共著書に『心穏やかに。人生100年時代を歩む知恵』(プレジデント社)などがある。NHK Eテレ「にほんごであそぼ」総合指導。テレビ出演も多数。著者累計出版部数は1000万部を超える。
射手矢好雄
1956年、大阪府に生まれる。弁護士、ニューヨーク州弁護士。アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー。一橋大学法科大学院特任教授。京都大学法学部卒業後、ハーバード大学ロースクールを修了し、日本とアメリカ・ニューヨーク州の弁護士資格を有する。2022年度より日本交渉学会の会長を務める。M&A、紛争解決、海外法務を専門とし、中国をはじめインド、タイ、ベトナム、インドネシアなどとの国際ビジネス交渉に従事。日本経済新聞「企業が選ぶ弁護士ランキング国際部門」にて1位を複数回獲得(2010年、14年、17年等)するほか、「Chambers Global」「The Best Lawyers」「Legal 500」「Who's Who Legal」など多数の受賞歴を持つ。編書に『中国経済六法2022年増補版』(日本国際貿易促進協会)、監修書に『2021/2022 中国投資ハンドブック』(日中経済協会)、齋藤孝氏との共著に『うまくいく人はいつも交渉上手』(講談社)がある。

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