本記事は、齋藤孝氏、射手矢好雄氏の著書『BATNA 交渉のプロだけが知っている「奥の手」の作り方』(プレジデント社)の中から一部を抜粋・編集しています。
トランプ元米大統領の〈BATNA〉の使い方
〈BATNA〉は決して交渉が成立しないときにしか使えないわけではなく、実際の交渉のなか(過程)で、その威力を発揮させることもできます。例えば交渉中に、「わたしには強い〈BATNA〉がある」とちらつかせて、交渉条件を有利にしていく方法があります。
逆に、最後まで〈BATNA〉があることをいわずに相手と交渉してしまうと、弱気の交渉しかできないことにもなりかねません。
〈BATNA〉を出すと相手の気分を害するのではないかと、〈関係〉を気にして遠慮する人がいますが、交渉の原則としては、そんなことを気にせずしかるべき場面で〈BATNA〉を有効に活用すべきです。
〈BATNA〉を使わないことで相手との長期的な〈関係〉を保つという別の〈利益〉があるのなら、無理をして〈BATNA〉を切らなくてもいいですが、少なくともビジネスでは、〈BATNA〉を切ったからといって〈関係〉は壊れません。なぜなら、〈利益〉を守るために、合理的な行動をしたに過ぎないからです。
この〈BATNA〉のちらつかせに関して、興味深い分析対象がアメリカのドナルド・トランプ元大統領の交渉術です。
例えば、北朝鮮の金キム正ジョン恩ウン朝鮮労働党委員長(現・総書記)との会談(2018年6月シンガポール、2019年2月ハノイ、2019年6月板はん門もん店てん)では、ときには首脳間の〈関係〉で親密さを演出し、ときには「アメリカの核は北朝鮮の核よりも大きい」と発言(〈コミュニケーション〉)して〈BATNA〉(〈合意〉できない場合の攻撃)をちらつかせ、交渉を有利に運んでいました。
ちなみに、トランプ氏に対する評価は容易ではありません。彼は自著『トランプ自伝 不動産王にビジネスを学ぶ』(筑摩書房)で、ビジネスマンとしての交渉方法について言及していますが、これは狙いを高く定めて、押して押して押しまくり、ほしいものを手に入れるとする手法でした。
また、『The Real Trump Deal: An Eye-Opening Look at How He Really Negotiates』(Brisance Books)では、同書の著者は、ビジネスマン時代のトランプ氏は交渉を勝つか負けるかと競争的に考え、虚偽や脅迫も含めて高圧的に交渉していたと分析し、大統領に就任してからもその手法は変わっていないと解説しています。
一方で、『トランプ自伝』を詳しく読むと、いくつかの不動産取引交渉については、相手の〈利益〉に合致する〈オプション〉を探し出した事例も発見できます。つまり、交渉はゼロサムゲームではなく、いい交渉をするには相手にも〈利益〉を与えるべきとする発想もあるようなのです。
しかしながら、トランプ氏は2020年11月のアメリカ大統領選でジョー・バイデン候補に敗れたことを認めず、「選挙が盗まれた」と虚偽の情報を支持者に発信(〈コミュニケーション〉)し、結果的に2021年1月6日のアメリカ合衆国議会議事堂への支持者の乱入に結びついていきました。
わたしなりに交渉論として分析すると、彼の失敗は、〈利益〉の設定が間違っていたのが原因といえるでしょう。
彼はアメリカの〈利益〉を唱えながらも、本当の〈利益〉は「自分が大統領として再任される」という利己的なものだったのです。
加えて、虚偽の情報に〈根拠〉がなかったこと、それを何度も〈コミュニケーション〉したことが、本質的な誤り(暴徒化した支持者による議事堂への乱入)につながったと見ています。
ビジネスマン時代のエピソードを読むと、彼は目の前の交渉をうまく進めることに関しては天才的だったかもしれませんが、大統領としての評価が高くないのは、国益よりも自分の〈利益〉を追求してしまったことに尽きるのでしょう。