本記事は、勢古浩爾氏の著書『脱定年幻想』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。

メンタルヘルス評価
(画像=tanoy1412/stock.adobe.com)

「精神的に強い人が『絶対にしない』10のこと」

するかしないか、だけで、事の良し悪しは決まらない。するかしないかで、決まる。もっとも、事の良し悪しが決まるのは、それが義務であるかどうかにもかかっている。「すべきこと」を「しなくていい」ということはない。

仕事なら、たとえめんどうでも、嫌でも、すべきことはしなければならない(社員へのお茶汲みは女性が、というのは論外)。わたしはこんな仕事をするために、この会社に入ったわけではない、とか、それは苦手ですから、という拒否は当然許されない。子どもは勉強をしなければならず、大人は税金を払わなければならない。仕事は嫌でも、やらなければ終わらない。

しかし、ここでわたしが「する」か「しない」か、でいいたいことは、私的な場面のことである。わたしは個人の自由は最大限許容されなければならないと考える。だから、する自由があれば、しない自由も認められるべきである。

だが世間では、「する」ことが大勢である。その理由は、単純に多勢がやっていることだからである。「みんなやってるじゃないか」とか「みんな持ってるよ」という理由ほど情けないものはないが(じつはみんなやってないし、持ってもいないが)、しかし世間とはそういうものである。「みんな」は強いのだ。

「みんな」がしていることを「しない」のは分が悪く、変わり者と見られる。未婚者が肩身が狭いのは、みんなが結婚をしているからであり、が肩身が狭いのは、みんなが酒を飲むからである。ゆえに、しない者は、世間(みんな)からの嘲弄ちょうろうを払いのけるだけの、それなりの精神的強さが必要なのである。

ネットに「精神的に強い人が『絶対にしない』10のこと」(「Forbes JAPAN」2017/2/11)というおもしろそうな記事があった。どういう人か知らないが、トラヴィス・ブラッドベリー(Travis Bradberry)という人が書いたようである(El Narizという人の名前も見えるが、こちらはよくわからない)。

正体不明のブラッドベリー氏はこういっている。「精神的な強さは、全く予期していないときに起きたことによって試されるものだ。その人の精神的なタフさは、国難なときに何をするかではなく、何をしないとかいうところに明確に示される。/精神的に強い人が決してしない10のことを学べば、あなたも自分の精神力を高めることができるはずだ」

おもしろいのは、「何をしないか」が重要視されていることである。する勇気があれば、しない勇気もある、ということだ。読んでみると、とくに「困難なとき」だけというのではないが、次のような「しない」10項目が挙げられている。

1「失敗にこだわらない」

これにブラッドベリーは解説を付している。「精神的にタフな人は、自分が何に気持ちを集中させているかによって、自分の感情が左右されることを知っている。そのため、失敗に固執せず、一方でその失敗を忘れることなく、頭の片隅にとどめておく」

とはいうものの、わたしは、なぜ失敗をしたかを考えるためにも、失敗にはこだわったほうがいいと思う。毎回、「さっ、終わったことだ。切り換え切り換え」なんてことをやっていると、いつまでも向上はない。

2「ネガティブな人と付き合わない」

これは賛成である。「冷たい人、失礼な人だと思われたくないために、何かを嘆いている人の話を聞いてあげなければという気持ちに駆られることはよくある。だが、親身になって聞いてあげることと、感情的な悪循環に巻き込まれることは違う」

ネガティブな人とは身の不幸を嘆く人間以外にも、不平不満愚痴タラタラの人間のことである。周囲を不快にして喜んでいるやつである。こんなイヤな人間にはなりたくない。できるだけ避けたほうが身のためである。

3「自分を疑わない」

これは自分を信じるということだろう。「精神力の強い人には忍耐力がある。失敗しても、疲れても、面白くないと思っても、諦めることはない」

4「謝罪を求めない」

これにもわたしは同意する。わたしは相手を責めないし、謝罪を求めない。納得できる説明があればいい。それが相手のミスや弱さからくるものでもかまわない。「強い精神力の持ち主は、非を認めずに謝らない人のことも恨まずに許す。そうすれば物事が円滑に進むことを知っているからだ。過去の恨み事や感情に『寄生』する憎しみや怒りは、今の幸せや喜びを台無しにする」

ただ、相手を「許す」ことができるかどうかは、事と次第による。

あとは、5「自分を哀れまない」。というのも「自分を哀れむことは、自らを現状に屈した無力な犠牲者だと決めつけるのと同じだ」から。6「恨まない」。なぜなら「他人を恨むことで生じる否定的な感情は、ストレス反応だ。ストレスを抱え続けることは、健康に害を及ぼす」から。

そして、7「誰の悪影響も受けない」があり(これも大事だ)、8「人のことに介入しない」──つまり「精神的に強い人は、他人を批判しない。人の能力はそれぞれに異なることを知っているからだ」があり、9は「怠けない」である。

最後の10「悲観しない」はこう解説されている。「ニュースを見れば、戦闘や攻撃、ぜいじゃくな経済、企業の破綻、環境災害など、世界は悪い方向に向かっていると思わせるようなことばかりだ。だが、精神的に強い人は、自分にはどうすることもできない事柄に心を捉われたりしない」

わたしは、これにまったく同意する。ただ不快になるだけのニュースなど、知ったところで、わたしになにかできるわけでもなく、なんの意味もないからである。

以上、いずれももっともなことである。たしかに「精神的に強い人」でなければ、常識や慣例や同調性が高い世間で、おのれを貫くことは困難なことばかりである。ただこれらの10か条は一般的かつ抽象的である。日常のなかでは、それは小さな一つひとつのことで表すしかない。

たとえば、「誰の悪影響も受けない」には、みんながやっているから、ということを理由にしないことも含まれる。ドコモのCМで大竹しのぶが携帯電話を持って、高齢者向けに「みんなはじめてますよ」というのがある。やかましいわ。これが「悪」影響というのではないが、商売人のなかには「みんな」という言葉で煽ってくる連中がうようよいるから、要注意である。

「みんな」がやっていることをしない、ということは案外楽ではない。余計なお世話なのに、なんでやんないの? とかいわれてしまうのだ。「する」人間は、「しない」人間がいると、している自分が否定されているように感じ、不快なのである。だから仲間に引きずり込もうとする。それができなければ無視し、排除しようとする。

自分のルールとは「格律」

こういう「しない」10カ条が意味を持つのは、たいていの人が、いつまでも失敗にこだわり、嫌々ながらネガティブな人と付き合い、自分の言動に自信がなく、謝罪だけは求め、自分を憐れみ、他人を恨み、人に影響されやすく、そのくせ人の批判だけはし、なにをやっても三日坊主で、すぐ悲観的になりがちだからである。

わたしにもいくつかは身に覚えがある。それでも、ブラッドベリーが「〜しない」ことが大事だというのは、それらにとらわれると、自分で自分をコントロールできなくなるからである。そして言い訳ばかりをするようになる。それは、他人や世間やろんな感情にしばられるということだ。

人はしても自分はしない、というのは自分だけのルールである。それを「かくりつ」といったのは哲学者のカントである(なんだ、めんどうくさいことはごめんだぞという人は、次項まで飛んでください)。

かれの『道徳形而上学原論』(岩波文庫)にはこう書かれている。「実践的法則は、それが同時に行為の主観的原則(原理)となる限り、格律(Maxime)と呼ばれる」(「格率」という訳もある)。

わたしはこの「主観的原則」をさらっと単純に、自分だけのルールと覚えた。ちなみに、カントの趣旨はもっと複雑なようである。こんなことをいっている。かなりめんどくさいのだ。

は、意欲の主観的原理である。これに対して客観的原理(すなわち理性が欲求能力を完全に支配していると想定されるようなすべての理性的存在者には、主観的にも実践的原理の用をなすであろうところのもの)は、実践的法則である」(傍点原文)。

この主観的原理と実践的法則の関係がよくわからない。自分でもわかっていないものを、偉そうに持ち出してきたりして申し訳ない。「格律は、行為を規定する主観的原理であり、客観的原理すなわち実践的法則から区別されねばならない」とも書かれていて、なんかめんどうである。はっきりいって、もうどうでもいい。

とりあえず、「格律は、行為を規定する主観的原理」である、ということが確認できればよい。それは、「実践的法則」でもある、と考えて、なんら不都合ではない。そしてそれを「自分だけのルール」あるいは「自分の流儀」と考えれば十分である。

ちょっと「格律」(「格率」)という言葉がかっこよく、その読みも「マキシム」ということでこれまたかっこよく、わたしは浅学の見栄でその言葉を覚えたのである。俗物なのだが、しかし「」をかっこいいと思うような言語感覚はない(光文社古典新訳文庫の『道徳的形而上学の基礎づけ』では、「Maxime」は、「マクシーメ」と読まれている。たぶん発音としてはこっちのほうが正しいのだろうが、わたしは「マキシム」のほうが好きなのである)。
で、わたしの俗なげんがく趣味(大した衒学ではない)などはどうでもいいのだが、いきなりこんなめんどうなことをいいだして、申し訳ないことである(お断りしておくが、わたしは自分の学歴や浅学についてコンプレックスはない)。

大事なことは、自分だけのルールである。しかも、もっと具体的なルールである。「自分の精神力を高める」こともいいのだが、わたしがそのルールが必要だと思うのは、自分がもっと自由でいられるためにである。当然、わたしは他の人のルールも(もしその人にあるのなら)尊重する。

人がしても、自分はしない、というのは、もっと具体的で、もっと小さい場面で必要になる。たとえばサッカーの長谷部誠選手が次のようにいっているが、そのようなことである。

努力が「報われる人」と「報われない人」の習慣
勢古 浩爾(せこ・こうじ)
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に34年間勤務の後、2006年に退職。定年後は、無用で不要な「しばり」から解放されて、自由への一歩を踏み出す生き方を提唱。一貫して、自分自身で世間の価値観や一般通念の是非を考えることの大切さを説く。1988年、第7回毎日二十一世紀賞受賞。著書に『こういう男になりたい』(ちくま新書)、『最後の吉本隆明』(筑摩選書)、『定年後のリアル』(草思社文庫)、『定年バカ』(SB新書)、『それでも読書はやめられない』(NHK出版新書)、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)、『定年後に見たい映画130本』(平凡社新書)ほか多数。

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