本記事は、勢古浩爾氏の著書『脱定年幻想』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。

幸せな笑顔
(画像=LAONG/stock.adobe.com)

「いい人」をやめない

「いい人」をやめる、ということを勧めるような本がいくつか出ている。共通しているのはたぶん、「いい人」をやめると、生きるのが楽になるということだ。和田秀樹『「いい人」をやめる9つの習慣』や、午堂登紀雄『「いい人」をやめれば人生はうまくいく』や、こころ仁之助『「いい人」をやめてスッキリする話』などである。

ほかにもしおなぎ洋介『それでも「いい人」を続けますか?』だの、緒方俊雄『「いい人」をやめる7つの方法』などがある。どうやら一時期、「いい人」やめブームがあったみたいだ。これらの本は図書館で読もうと思っていたら、はじめの3冊がみな貸出し中。おや、人気なんだ。

どの本も、どっちみち、だれからも好かれようとして、「いい人」を無理に演じるのはストレスになるからやめましょう、もっと気楽に生きましょう、といったことが書かれているのだろう。

そういえば曽野綾子に『敬友録「いい人」をやめると楽になる』(祥伝社黄金文庫)という本があったなと思い出し、前に読んだことがあるのだが、内容はまったく覚えていない。これが「いい人」否定本の元祖だろう。これを読めば十分だろう。もう一度読んでみるかと読んでみたら、これが曽野のいろいろな著作からの文章の寄せ集め本だったのである。そんなことも忘れていた。まあ忘れて当然である。曽野綾子はこのようにいっている。

いい人をやめたのはかなり前からだ。理由は単純で、いい人をやっていると疲れることを知っていたからである。それに対して、悪い人だという評判は、容易にくつがえらないから安定がいい。いい人はちょっとそうでない面を見せるだけですぐ批判され、評価が変わり、棄てられるからかわいそうだ。

ありそうなことだとは思えるが、考えてみるとピンとはこない。「かわいそう」ないい人とは、世間から叩かれたタレントのベッキーあたりを思い浮かべればいいのか。

この本は表題のテーマの下に書かれた本ではないから、「いい人」とはどんな人のことか、「いい人」をやめるとどんなふうに楽になるのか、などは書かれていない。わたしもそんなことは問わない。読む人間が勝手に(自由に)、「いい人」とはこんな人間のことだ、と考えればいいだけのことである。

「ふつう」が一番、てなことをいうと、かならず「ふつうってなんだよ」と突っ込む輩がいるが、自分で「ふつう」ということを考えたこともないくせに、ただ言いがかりのためだけに、いうのである。そういう連中がわたしは好きではない。

「いい人」もおなじ。わたしが考える「いい人」とは、他人への気遣いができて、公平で、いつも穏やかで、自分につかず離れずの人のことである。

さんな定義だろうけど、日々を生きていく上ではこんな程度で十分である。

犯罪者が捕まると、近所の人が、いい人だったのにねえ、信じられない、といったり、被害者についても、いい人でしたよ、人に恨まれるような人じゃない、ということがよくあるが、そういう人のことである。

愛想がよく、挨拶をきちんとし、まじめに仕事をし、子煩悩な人はみんな「いい人」なのである。一言でいえば、誠実な人である。だったらこんな「いい人」やめることはないじゃないか。やめるどころか、みんなこんな「いい人」になればいいじゃないか、と思う。

曽野綾子がどんな「いい人」なのかは知らないが、自分で「いい人」をやめたといっている。自分のことを「いい人」だと思ってたんだな。なぜやめたのかというと「疲れる」からだそうだ。どういうふうに「疲れる」のかはわからない。

どうせ、他人に嫌われたくないし、だれからも好かれようとして、いいたいこともいえないとか、人のことばかりに気を遣っているとか、人に頼まれると嫌といえないとか、誘われると断れないとか、こうしたらこう思われるのではないかが心配とか、そういうことで人間関係が疲れる、ということなのだろう。

こういう人は「いい人」なのではない。ただの気が弱い人である。「他人に嫌われたくない」から、自分の本心がいえない、というのは「いい人」の条件ではない。相手の機嫌を損ねたくないし、気まずくなりたくないし、怒られたくないし、断ることで相手を傷つけたくないし、向きになって拒絶するほどのことでもないし、ただ自分が我慢すればいいだけの話だ、というのはただの性格の弱さである。

「いい人」を演じるというが、こんな人は「いい人」でもなんでもない。ただし、わたしはこのような「気が弱い人」が好きである。「いい人」だとは思わないが、恥ずべき性格の人だとは思わない。

他人から嫌われたくないのは、だれでもおなじである。そんなことをつねに意識しているわけではないが、みんな、できれば好かれたいと思っている。嫌われるより好かれていることがいいのは、あたりまえのことである。

当然、こいつはバカじゃないのか、という無神経な人間はいる。相当数いる。なぜいるのか。バカだからである。なんでもずけずけいう人間はただの無神経である。自分の意志を押しつけてくる連中は、ほんとうはあなたのことなどどうでもよく、自分の快感のことしか考えていないのだ。

問題なのは、他人に嫌われたくないために(仲間外れにされないために)、本心は嫌なのに、相手に応じてしまうことである。嫌なことやめんどうくさいことはいくらでもある。少々のことならしかたがない。しかしなかには、応じるくらいなら嫌われたほうがはるかにまし、というのもある。だから『嫌われる勇気』という本が大ベストセラーになるのである。

日本は同調圧力が強い社会である(どの社会にもあるだろうけど)。付き合えといい、酒を飲めといい、カラオケを歌えといい、社内旅行に参加しろといい、断ると何様だといい、堅いやつ、まじめなやつと陰口を叩かれ、自分がガキそのもののくせに、もっと大人になれよという。

昔に比べれば、その圧力も公にはかなり弱まってきたと思われるが、小さなグループのなかでは依然として強いのではないか。そりゃあ、気弱なあなたのほうが人間としてずっと高級である。ただ必要なのは、高級であると同時に、強さである。

「あの人、いい人ね」というのは、ほめているようで、「でも、それだけ」というように、大概つまらない人間の代名詞のように考えられている。そういう自分は大した人間でもないくせに、不良性を持ったいっぱしの人間を気取っている生意気な連中である。やらせてみれば、なにもできやしないのだ。

じゃあ、つまらなくない人間とはどんなやつなのか。笑わせてくれるおもしろい人間か。ちょっと危険な香りのする不良っぽい人間か。それこそ、ありきたりでつまらない。古くさくて、「いい人」よりはるかにつまらない。なんでもできるのは「いい人」だけである。つまり、何事にも誠実な人間である。

努力が「報われる人」と「報われない人」の習慣
勢古 浩爾(せこ・こうじ)
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に34年間勤務の後、2006年に退職。定年後は、無用で不要な「しばり」から解放されて、自由への一歩を踏み出す生き方を提唱。一貫して、自分自身で世間の価値観や一般通念の是非を考えることの大切さを説く。1988年、第7回毎日二十一世紀賞受賞。著書に『こういう男になりたい』(ちくま新書)、『最後の吉本隆明』(筑摩選書)、『定年後のリアル』(草思社文庫)、『定年バカ』(SB新書)、『それでも読書はやめられない』(NHK出版新書)、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)、『定年後に見たい映画130本』(平凡社新書)ほか多数。

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