本記事は、勢古浩爾氏の著書『脱定年幻想』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。

健康的なライフスタイル
(画像=Chinnapong/stock.adobe.com)

健康に過度にとらわれない

長く生きてなにをしたいわけでもないのだろうが、できるだけ長生きしたいと思うのは、人情なのかもしれない。わたし自身は長生きをしたいとは思っていない(いつ死んでもいい、とも思わない)が、ご長寿の方を腐すつもりはまったくない。

しかし手放しの長寿礼賛の風潮はいささか苦々しい。と思っていたら、百歳以上の人が増えすぎて、祝い金や記念品を見直す自治体が出てきたという(静岡市)。政府はすでに純銀製の銀杯をメッキに変えた。なんだ、おばあちゃん百歳おめでとう、とかいってたくせに、結局は、金の問題か。

87歳のボディビルをやっているご老人が(本人は自慢のつもりで、大胸筋に力を入れて締めたり緩めたりするが、所詮じいさんの体だ。わたしも意地が悪い)、目標は125歳まで生きること、といって高らかに笑ったが、笑われてもなあ。

長寿への意志がここまで行くと、さすがに過剰すぎる気がする。125歳まで生きることを目標とすることになんの意味があるのかと思うが、本人がそう願っているのだからしようがない(ギネスの長寿世界一狙いなのか?どうでもいいが、ギネスはくだらないよ)。

健康が一番、とはだれでもわかっている。20、30代の頃は、そんなこと思いもしなかったが、60歳も過ぎれば、そのことは痛感する。

しかし、健康という概念は曖昧である。やたら「ヘルシー」という言葉が飛び交うようになったが、病気になってしまうのは防ぎようがない。というと、いやあるよ、食事に気を付けて、あとは適度な運動だよ、といわれるのだろう。それに年2回の健康診断を受け、必要なサプリメントを摂り、年に1回人間ドックに入れば、とりあえずは一安心だ、と。

わたしがここに書くくらいだから、これらが健康のために大切らしいことはわかっている。しかしわたしも、1日3食美食をしてもかまわないとは思っていない。好き放題、暴飲暴食をしていいとも思っていない。ふつうの食事というものがあろうではないか。

あとは体力の維持である。歳をとってなにもしないと、覿てきめんなのは、筋力が衰えることと、体が硬くなることである。「開脚ベター」などは無用だが、昔は両足が120度ほど開いていたのが90度になったり、歩いていても足が頼りなく、ちょっとした駆け足も自信がなくなる。懸垂が一回もできなくなり、腕立て伏せも数回が限界になるなどがくぜんとする。若い頃は背中で両手を組むことができたのに、いまでは太平洋くらい間があいて遠い。いつのまに、こんな体になってしまったのか。

健康一番とはわかっているが、世の人とちがうのは、そう思っていながら、わたしはそのためになにひとつしていないことである。なぜしないのか。第一番は、めんどうだから、である。2番目は「健康のため」「長生きのため」というのが気に入らないからである。

上手くなるため、強くなるため、知識を増やすため、という目的ならわかるし、意欲もある。しかし、なんなのだ「健康のため」とか「長生きのため」という目的は?まったくろんな目的ではないか。効果が見えないし、ゴールはない。必死か? ただの気休めではないのか?いじましすぎるのである。

といって、ラジオ体操やウォーキングやストレッチをしている人を腐すつもりはまったくない。体を動かすことは、別に「健康のため」でなくても、気分のいいことだからだ。

しかし、たかだか健康のためにわざわざお金を使うことはない。お金を使ってフィットネスクラブやヨガ教室に通わないとやった気にならない、というのはひ弱な精神である。

逆にいうと、お金を払ってどこかに通えばやった気になる(英会話などもおなじ)というのは、自分を騙す自己満足である。「高価」というのが効果あると思いたいのだろうが、そんなものはなんの保証にもなりはしない。そんなことをしないでも、ラジオ体操や腕立てや腹筋やストレッチや散歩で十分である。

高価なサプリメントを飲んでいると、効いた気になるのも同様であろう。気休めの効果はあるのかもしれないが、いったんそのループに入ってしまうと、やめることが不安になり、やめられなくなる。まったく健康不安産業の連中のたくらみは、じつに巧妙なのである。

高齢になると、女性の「顔下半分のハリがなくなり不安」と決めつける。「もうあきらめるしかないのか」。いえいえ「女性はいくつになってもキレイになれる」。「上げ肌」「若見え肌」になりますよ。そのためには、こちらのクリーム。価格は1ヵ月分、5,657円。定期コースはもっとお得。──なにが「上げ肌」「若見え肌」だ。ほんとうに厚顔でずる賢い連中である。美は生まれつきだよ。

あまり健康ということにとらわれすぎて、逆にストレスをめ込んではなんにもならない。どんなに気をつけてもだめなときはだめなのだから。腹八分目の食事をして、散歩をしていればいいのではないか。

特保食品なんかまったくあてにならない。金をかけないでできることは、いくらでもあるのである。なんでも人頼みや金頼みはひ弱である。わたしはなにひとつやっていないが、もしやるのなら腹八分と散歩だけで十分である。なんの説得力もないだろうが、このことには自信がある。

努力が「報われる人」と「報われない人」の習慣
勢古 浩爾(せこ・こうじ)
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に34年間勤務の後、2006年に退職。定年後は、無用で不要な「しばり」から解放されて、自由への一歩を踏み出す生き方を提唱。一貫して、自分自身で世間の価値観や一般通念の是非を考えることの大切さを説く。1988年、第7回毎日二十一世紀賞受賞。著書に『こういう男になりたい』(ちくま新書)、『最後の吉本隆明』(筑摩選書)、『定年後のリアル』(草思社文庫)、『定年バカ』(SB新書)、『それでも読書はやめられない』(NHK出版新書)、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)、『定年後に見たい映画130本』(平凡社新書)ほか多数。

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