本記事は、勢古浩爾氏の著書『脱定年幻想』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。

時計とビジネスマン
(画像=beeboys/stock.adobe.com)

世間にしばられない

世間には2つの意味がある。ひとつは、一般社会の価値観(一般通念や習慣)のことである(世間的価値)。もうひとつは、その範囲が、個人から、近所や会社といった小社会、一般社会と、時々に変わることである。つまり、人は世間という言葉をその都度適当に使っていて、これが世間だというものはない。

世間の価値観の1番は、金を持っている者がエライ、である。いまはなくなったが、かつての所得番付がそうであり、いまでも世界の資産家ランキングやスポーツ選手の収入や、大企業がどれだけ儲けているかの情報や、一部の芸人がやたら他人の収入を知りたがるのは、その典型例である。

その価値観にはほかにも、会社は大きければ大きいほどエライ(そこに勤めている人もエライ)があり、学歴は高いほど上、があり、有名人はエライ、があり、人は若く見えるほどいい、があり、人は明るく賑やかなほうがいい、があり、長生きすればするほどエライ、があり、結婚は未婚より上、などがある。

わたしはこれらのほとんどに興味がない(まったく興味がない、でないのは、わたしも一応社会のなかで生きているからである)。元々、若い頃から世間の価値観にはうまくなじめなかったところがある。

もちろん、人がいい学校や大きい会社を目指し、より多い収入を望み、多くの人と交際できる人間性を持つことは、いいことである。ただそれだけが「エライ」というのが、わたしは好きではないというだけのことだ。

それに60も過ぎれば、どんな人間も大差ないな、と思うようになる。エライとされてきたものも大したことないな、専門家といえど、ピンは少なく、大半はキリばかりではないか、とわかり、そんな世間の価値観がどうでもよくなるのである。

世間の範囲も適当である。太宰治が喝破したように、世間が許さないというのは、おまえが許さないということだろ、というように、ひとりが、あるいは数人が、ときには小集団が、あるいは一般社会が、「世間」という隠れ蓑を着たり、着せられたりして出現するのである。

常識や習俗や慣習や文化が長年にわたって混合され、あいまいとした社会的規範として出来上がったものを、一人ひとりが適当に切り取って、自分に都合のいいように「世間」をせんしょうしている。

そんな世間が無責任なことはいうまでもない。世間の口に戸は立てられない、というぞくげんは、世間(一人ひとりの人間)はただ好き勝手をいうからである。実体はその時々で姿を変え、たしかな根拠などあるわけがないのである。

世論も世間である。世論というが世論に「論」はない。パブリック・オピニオンといってもパブリックもオピニオンもない。あるのはマスコミで流された論調に雰囲気的に乗せられたプライベートな好き嫌いだけである。まあ、それを「パブリック」というのかもしれないが。

だいたい、自分のことで手一杯の一般の人間に、安保関連法案や北朝鮮問題や原発やアベノミクスや医療制度や、その他諸々の問題について総合的判断などできるわけがない。政権支持か不支持かなど、テレビや新聞のマスコミの論調に乗っているだけである。

歳をとるにつれて、世間の流行にも興味はなくなる。世論調査や各種アンケートは、世間の傾向を知るにはそれなりに重宝だが、わたし個人としてはほとんど信じない。時に、世間の価値観に同意するのは、わたしの価値観と合致する場合だけである。

わたしは、近所や会社という小社会の世間は、半ば意図的に狭めてきたから、そうでなくても大きな世間ではなかったものが、かぎりなく小さいものになっている。現在はいかなる世間とも、ほぼ絶縁状態である。こちらから縁を切ったようなものだが。

わたしが生きている場所は、たとえば次のような小さな場所である。ひとりの世界に、世間はないのである。

小さな場所で生きる

早朝5時のマクドナルドは気持ちがいい(先にも少しふれた)。客はわたし以外、だれもいない。世界はまだ起きていない。ボックス席で外を見たり、本を読んだり、イヤホンで音楽を聴いたり、文章を書いたりする。

そこで数時間を過ごしたあと、9時開店の大きな喫煙カフェに行く。さらに気持ちがいい。タバコがえるからだ。店内はやや民芸風。ここにもわたしは一番乗りだから、客のざわめきがまったくない。収まりのいい椅子に座ってのんびりする。

だがわたしはたいていの場合、徹夜明けである。気分は爽快なのだが、頭が多少重いのがりょうてんせいを欠く。だから、たまに睡眠を十分とったあとに行く早朝9時の喫煙カフェは文句がない。時間の過ごし方はマクドナルドでの過ごし方とおなじだ。やがて客が三々五々入ってくる。ほとんどがひとり客である。が、みんなわりと短時間で出ていく。ただの休憩なのだろうか。わたしほど長くいる客はいない。わたしにとってこんな贅沢な時間はない。

わたしは食べることも、人と会って話すことも、旅に出ることも好きである。若い頃は好きな連中と大人数でのわいわいがやがやも嫌いではなかった(たとえば会社仲間で作った野球チームなど)。

が、いまでは、ひとりでいることと、静かさと、アイスコーヒーと、タバコと、音楽と本が一番好きなのだとわかる。自由が漂っているのだ。深夜ひとりで観る映画や、録画したNHKの将棋を観る時間も好きである。

時計を持たないから喫煙カフェでどれくらい時間がったかわからない。しかし、そろそろかなと店を出ると、ほぼ2時間が経っている。ちょうどいい。惜しむらくは、早朝の贅沢な時間も2時間ほどで終わることだ(マクドナルドとあわせればほぼ5時間)。深夜も、夜が明ければ終わる。午後に入る3軒目の喫茶店ともなると混雑してきて世間が戻ってくる。

すべては相対的である。ひとりの贅沢な時間があるのも、残余の膨大な猥雑な時間があるからである。世間があるから、ひとりもあるのだ。退職後に、毎日が日曜日になって、思ったほど天国でもないなと感じたのは、たぶん月─金のしばりの時間がなくなったからである。

毎日、仕事を終わって会社を一歩出たとたんに感じたあの解放感は、もう定年退職後にはない。土曜日の朝に目覚め、ボーッとした頭で「ああ、今日は土曜だ」とわかったときのあの安堵感もいまはない(といって、月─金はもういらないが)。

会社に勤めていたときでも、付き合うのは会社の人間か友人か編集の人たち。どっちみち小さな世間だった。それがいまではさらに狭まり、もはやテレビの画面から見る世間だけになったといっていい。もちろん、それでなんの不服もない。

そうなってみると、なにしろ1日に最低6時間はテレビを観ているものだから、まあ以前からもそうだったのだが、世間で持てはやされている大半のことが、ばかばかしく思えてならない(それでも観ているのだ)。あきらかに興味全般が薄れてきているのだろう。

もともと世間の価値観からずれたところで、生きてきたのだから、その度合いが深まっただけのことである。このまま静かな小さな場所だけで生きつづけることができればなんの文句もないのだが、そうもいかないのが世間である。

世間体は自分体である

そんな世間を気にするのが世間体である。昔は「世間体が悪い」という言葉を聞いたものだが(母がよくいっていた)、最近はあまり聞かれなくなった。世間体を気にする者より、おまえはもう少し世間に気を遣えよといいたくなるような世間無関係派が増えてきたということか。だが、世間体という言葉は消滅しかかっているにしても、人の心のなかには依然として世間がんでいるようだ。世間の目など気にするな、といったかたちで。

こんなことをいったら(したら)どう思われるか、こんな格好をしていたらどう見られるか、こんな暮らしをどう思われるか──みじめだなとか、かわいそうにとか、さびしいんだなとか、バカなんだなとか、哀れだなとか、金がないんだろとか、ただのケチなんだとか、気が弱いんだなとか、思われるのではないか。

男らしくないとか、なにもできないとか、老けてるなとか、じじいばばあだとか、汚いとか、ハゲてるなとか、太ってるなとか、ひとりぼっちなんだとか、行くところがないんだなとか、笑われているのではないか。

すべて自分がつくりだした妄想である。そう妄想するにはそれなりの根拠がないわけではない。この社会では、こうすればこう思われるといった「世間の目」が雰囲気として作られているからである。

わたしたちは大きくなるにつれて、いつの間にか、その「目」を自分のなかに持ってしまうのである。つまり、自分もまた世の中や世の人を、その「目」で見ているのだ。世間体を気にする人は、世間の価値観を内在化しているのである。

つまり世間体とは自分体じぶんてい(こんな言葉はないが)である。世間体を気にするとは、実態のない世間を相手に独り相撲をとっているのである。

「ネクラ」だの「結婚適齢期」だのが世間的価値として定着すると、だれかに直接いわれなくても、そういう目で自分を見るようになる。これらは少し薄れてきたが、まだ「女のしあわせは結婚」という価値観は残存している。これを内在化してしまうと、そこから抜け出すのは容易ではない。「老いらくの恋」は善悪どちらともいえず、両義的である。

自分のなかの「世間の目」を気にするあまり、こう思われているのではないかという気持ちを抑圧し、反対に、こう思わせてやると自己アピールするものが出てくる。さり気ないものなら、まだかわいげもあるが、おれは偉い、おれは強い、おれは大物だと居丈高になるやつだと始末に困る。

世間の目を恐れて行動がしゅくするのも、その逆に過度なアピールになるものも、自分自身の自由のなかで生きているのではなく、世間の目のなかで生きていることはおなじである。

しかし、自分が思っているほど、世間はあなたのことを気にしていない。まったく気にしていないといってもいい。あなたのことなど、どうでもいいのである。

もし世間体を気にするのなら、それは自分が自分をしばっているのである。個人のブログやツイッターやフェイスブック事情がどうなっているのか、わたしはまったく知らないが、閲覧アカウント数が少なかったり、「いいね!」が少なかったりしてがっかりする人がいるらしい。あたりまえのことである。自分は注目されている、と思うほうがおかしいのである。

努力が「報われる人」と「報われない人」の習慣
勢古 浩爾(せこ・こうじ)
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒業。洋書輸入会社に34年間勤務の後、2006年に退職。定年後は、無用で不要な「しばり」から解放されて、自由への一歩を踏み出す生き方を提唱。一貫して、自分自身で世間の価値観や一般通念の是非を考えることの大切さを説く。1988年、第7回毎日二十一世紀賞受賞。著書に『こういう男になりたい』(ちくま新書)、『最後の吉本隆明』(筑摩選書)、『定年後のリアル』(草思社文庫)、『定年バカ』(SB新書)、『それでも読書はやめられない』(NHK出版新書)、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)、『定年後に見たい映画130本』(平凡社新書)ほか多数。

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