一人ひとりが持つ思い出のある場所:まちを一人ひとりがつくる、そのための仕組み

変える力,大きな社会
(画像=PHP総研)

加戸 私は「まちづくり」をやっています。各地でまちづくりは行われていますが、多くの場合、先ほど言われた「活性化」に終始するように感じます。そうした活性化は、何のため、誰のためのことなのでしょうか。多くの場合、うさんくさいものになりがちなのは、肝心の「まち」とは何か、という部分が曖昧なまま、「まちづくり」が進んでいるからではないかと思うのです。

「まち」とは、思い出のある場所です。みんなが「あそこでね」と言い合う、「あそこに集まろうよ」、「まちで集まろう」、「じゃあ、あそこね」と、複数の人たちに共通してぱっと思い浮かぶ場所。どの地域でも、地方であれば、大体決まるものです。

それはショッピングセンターでもニュータウンでもありません。多くの場合、昔の記憶とつながっています。友達と遊んだ、多世代の交わりがあった、一人ひとりにとって、大切な、かけがえのない人との思い出がある場所、それが「まち」であり、それをつくるのが「まちづくり」なのだという定義をしています。

思い出の作られ方からも「まちづくり」は見えてきます。思い出は、人と人が重なり、距離が近づいたり離れたりする時にうまれます。みんなが集まり、やがて、一人ひとりになっていく。距離の変化が深く印象に残り、思い出になります。みんなといた場所、そう自分の中で思うところが「まち」になっていくのです。人口減少があっても、みんながそう認識できれば、思い出のまちは無くなりません、残せるのです。思い出から出発するまちづくりとはそれを意図しています。

だから、私たちの会社、まちづくり松山のロゴも人と人がつながり、支え合っている姿を表現しています。こうださんの思いと共通する部分ですね。

最初にやったのは、これもこうださんと同じかもしれませんが、自分の思いがずれていないのか、あらゆる世代の多くの人の考えや思いに耳を傾けることでした。最初はバラバラなことを言っているように聞こえても、丁寧に聞いていくことで、コアにあるものは一緒なんだと気付くことができました。

松山の歴史も紐解きました。このまちはどう作られてきたのか。100年前に先人が築いたものは今もたしかに生きて私たちの思い出と共にあります。一方、大きな流れ、例えば、戦後復興からの経緯を見た時、それは、国主導、行政主導のまちづくりでした。焼け野原からの復興は加速しましたが、公共事業、補助金、規制の強化と緩和、それらによる誘導。そうした政策は切れ切れで、継続しているものはほとんどありません。例えば、商店街を見ても、塗り替えばかりで継続している政策がありません。

比喩として挙げれば、ガラケーのようなものでしょう。付け替えばかりで、一貫して継続できる仕組みになっていません。地域の基盤になるインフラがあって、時代の変化に応じて、アップデートできる、また、課題に応じてアプリを使い分ける、スマートフォンのようになっていません。日本全体が近代化の流れにあったためでしょうが、アメリカに追いつけ追い越せとやってきましたが、立ち止まって考えてみれば、これでよいのかと思うんです。

先ほど「まちは誰のためにあるのか」と申しましたが、やはり、まちに思い出を持つ一人ひとりのためにあるんです。だとすれば、一人ひとり=民が主導するまちづくりでなければならず、これを誰かが進めていかなければなりません。では、どうやって進めるのか、実現していくのか、そこがポイントです。

重要なのは、「信念を曲げずに、経営として貫く」ということです。ガラケーのように、事業の更新ごとに切れていくまちづくりではなく、思い出と共に生きることができ、折々の課題に柔軟に対応できる、そして経済が回る、スマホのようなまちづくりが必要です。私が担うのは、スマホの基本ソフトなんです。社会課題解決やニーズに対して、それぞれの人が必要なアプリにぱっとアクセスでき、さらに経済が回っていくような、そういったフレームワークをつくることに私は力を注ぎたいと考えています。