はじめに

日本のベンチャーへの資金供給で大きな存在感を示してきた官民ファンドのあり方が問われている。政府の成長戦略の一環で、イノベーションに向けたリスクマネーが不足している状況に対応すべく、株式会社産業革新投資機構(JIC(1))が発足したが、その運営方針等を巡るJICの経営陣と経済産業省の対立を経て、現在仕切り直しを図っている状況だ。本稿では、JICに関する論点を概観するとともに、官民ファンドがベンチャーへの資金供給にどのような影響を与えてきたのか、ベンチャー創出・育成という観点から見たJICへの期待等について考察したい。

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(1)Japan Investment Corporation

JICの方向性を巡る議論

●仕切り直しとなったJIC

2018年12月10日、JICの田中正明社長(当時)が記者会見を行い、自身も含めた民間から参画する取締役9名の辞任を発表した。辞任の理由について、「経産省の産業革新投資機構に対する姿勢が、当初の『リスクマネー研究会報告2』の内容から大きく変貌・逸脱し、いわば『民のベストプラクティスを活用する官民ファンド』ではなく『100%近い株式を保有する株主として、国の意向を反映する官ファンド』へと重大な変化を遂げつつあることを認識するに至り、当初私たちに託せられたと信じた目標や、我が国の将来のためにと思って志した目的を実務的に達成することは困難であるとの共通認識に達した」、「ここ数ヶ月間次第に増幅されて来ていた経産省に対する不信感が、一度正式に提示した報酬の一方的な破棄という重大な信頼毀損行為により決定的なものとなり、最早経産省との信頼関係を回復することは困難という判断に至った」(田中氏記者会見)と述べた。

一方の経済産業省は、報酬撤回の不手際を認めながらも、「国の資金で運営をされている組織の報酬というのは、?定の水準ですとか、あるいは国民がある程度納得をいただける相場観というものもある」、「固定給プラス短期業績連動で5,500万円とか、あるいは固定給で6,000万円といった報酬は、これは高過ぎる面がある」(いずれも2018年12月4日の世耕弘成経済産業大臣の閣議後記者会見)と言及している。また、ガバナンス面についても、「孫ファンドみたいなものを作って、国の目が届かないような投資があっていいのかどうかというところの溝が埋まらなかった」(同記者会見)と述べている。

報酬やガバナンスの面で双方の間に生じた溝が契機となり、JICは本格的な投資活動を前に仕切り直しを余儀なくされた。

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(2)経済産業省「第四次産業革命に向けたリスクマネー供給に関する研究会取りまとめ」(2018年6月29日)
https://www.meti.go.jp/report/whitepaper/data/pdf/20180629001_2.pdf

●JICとは

JICは、株式会社産業革新機構(旧INCJ(3))を前身とする官民ファンドだ。

旧INCJは、産業競争力強化法に基づき2009年7月に設立された。一般的にはジャパンディスプレイ(JDI)やルネサスエレクトロニクスへの支援のイメージが強いのだろうが、2013年頃からベンチャー投資も積極化しており、2019年3月末時点までに約2,700億円(直接投資、ファンド出資合計)ものベンチャーへの投資を決定してきた(図表1)。ベンチャー・キャピタル(VC)業界全体では、圧倒的にIT関連の投資が多いのが現状だが、INCJは健康・医療、産業機械、素材等の民間リスクマネーが不足しがちな分野への投資を進めてきた(図表2)。ここ数年では、AIや宇宙開発等のベンチャーにも投資を行っている。ベンチャーへのリスクマネー供給という観点では、存在感を示してきた。

国内ベンチャー,官民ファンド 国内ベンチャー,官民ファンド
(画像=ニッセイ基礎研究所)

一方、旧INCJの運用期間は15年間と定められており、育成や資金回収に時間のかかる領域の投資を考えると、終期まで数年を残していても新規の投資が行えなくなるタイミングが近づいていた。そうした背景の中、経済産業省の有識者会議(4)では旧INCJの見直し等が議論された。アベノミクス以降、日本のリスクマネー供給を巡る環境は改善したものの、海外と比較すると圧倒的な差をつけられており、まだ民間資金が集まりにくい分野が残っている等の課題も指摘されている。その取りまとめでは、政府の成長戦略の柱であるSociety5.0実現等に向けて、引き続き投資を行えるよう措置するのが適当だ、と結論付けられた。2018年5月には、産業競争力強化法等の一部を改正する法律が成立し、旧INCJの組織・運営の見直しが織り込まれるに至った。

2018年9月、旧INCJがJICへ商号変更し、新体制でスタートを切った。運用期間は2034年3月末まで延長された。なお、新設分割する形で株式会社INCJ(現INCJ)がJICの100%子会社として発足した。旧INCJの事業や体制を引き継ぎ、既存投資先への追加投資やバリューアップ活動、資金回収(EXIT)活動を中心に、従来の期限である2025年3月末を終期として引き続き活動することとなった。

旧INCJが直接投資を中心としたのに対し、JICは傘下に組成するファンド経由での投資を中心とする方針を掲げた。JICが直接投資を行う場合は、投資案件ごとに経済産業大臣に意見照会が必要とされたが、他方でファンドの場合は、設立・組成時こそ経済産業大臣の認可が必要だが、以後ファンドが行う個別投資については案件ごとの認可や意見照会は不要とされた。投資運用のプロであるファンドマネジャー(ベンチャー・キャピタリスト)が機動的に投資判断し、活動出来る仕組みである。新しい投資基準では、Society5.0に向けた新規事業創造、ユニコーン創出といった重点分野が掲げられ、市場から退出すべき者の救済を目的とする投資は行わないことを明確に示している(図表3)。また、当面の経営方針として、投資活動を開始するために認可ファンドを迅速に組成すること、一流のプロフェッショナル人材を獲得すること、国内外の民間資金を積極的に受け入れるとともに、民間投資事業者との協調機会を増やしていくことを掲げた(同じく図表3)。

国内ベンチャー,官民ファンド
(画像=ニッセイ基礎研究所)

2018年10月には、第1号ファンドであるJIC-USの組成が経済産業省により認可された。JIC-USは、米国を中心としたバイオ・創薬関連分野を投資対象とし、投資規模は最大20億ドル(約2,200億円)を見込んでいた。米国を中心としたバイオ・創薬分野で豊富な経験と人脈を有するJICの副社長(当時)が代表を務め、その人脈で現地の有力人材を確保していたとのことである。バイオ・創薬分野のイノベーションの最先端である米国で投資を行い、その「インナーサークル」に入り込む中で、世界最先端の技術開発へのアクセスと知見を得て、投資の「目利き力」を高めるとともに、国内製薬企業やバイオ関連企業へM&Aや提携等の機会を与える架け橋としての機能を担うこと等を狙いとしていた。JIC-USから個別企業への直接投資だけでなく、傘下にベンチャー企業への投資を行うファンド(JUVC)や、上場直前から上場後のスケールアップを目指す企業への投資を行うファンド(JUPE)を組成し、そのファンドに出資も行う予定であった(図表4)。そしてそのファンドには、民間からの資金供給を確保するよう努める方針としていた。

国内ベンチャー,官民ファンド
(画像=ニッセイ基礎研究所)

また、1号ファンド組成の発表と同時に、当面の投資全体方針も示された。米国に加えて、国内ベンチャー、国内PE、国内エンゲージメント(上場企業に投資を行い長期かつ建設的な「対話」を通じて企業価値向上を図る)の4つの領域でファンドを立ち上げ、投資を本格化させていく方針を示した(図表5)。

国内ベンチャー,官民ファンド
(画像=ニッセイ基礎研究所)

結局、冒頭で述べたJICの経営陣による辞任表明の中で、まだ投資実績のなかった1号ファンドJIC-USを精算することも示された。国内ベンチャーの投資がどのようなスキーム、規模、スケジュールで立ち上がるのかについても、具体像が見えて来ないまま、実質的な休止状態となった。

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(3)Innovation Network Corporation of Japan
(4)経済産業省 第四次産業革命に向けたリスクマネー供給に関する研究会

●出直しに向けた議論

こうした中、JICの運営体制の再構築に向け、報酬体系、ガバナンス、政府関与等のあり方について議論すべく、経済産業省において有識者会議(5)が立ち上げられた。2018年12月末から2019年1月末にかけて合計4回開催され、議論が交わされた。

有識者会議を経て、2019年3月末に経済産業省はJICの新しい運営方針を公表した(図表6)。注目されていた経営陣の報酬水準については、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)等の他の公的機関を参照するとの方針が示され、年間3,000万円前後とされるようだ。また、政策目的の実現に寄与することが目的であることを示し、これまでの経緯も踏まえて、JICの経営陣や社外取締役と経済産業省が定期的に対話を行う仕組みを構築することにも言及された。個別の投資判断は認可ファンドの投資プロフェッショナルに委ねることを原則としながらも、全体の運営等については経済産業省として関与を深めていくことが示唆されている。

新しい運営方針が示された今、新しい経営陣の人選が進められている。「スケジュールありきではなく、拙速にならないようにやっていきたい。」(2019年3月26日の世耕経済産業大臣の閣議後記者会見)と、慎重な人選を出来る限り早く進めるとの方針で、具体的な時期等については示していない。

国内ベンチャー,官民ファンド
(画像=ニッセイ基礎研究所)

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(5)JICについての第三者諮問会合