はじめに

気候変動が私たちの社会経済的安定性を脅かす今日、金融政策の問題は気候変動の問題と類似していることに気づく。第一に、危機時において、政策協調の役割が絶対的になる。環境省や環境保護局など政策当局は、水や大気などの環境資源を脅かす気候変動への対応を迫られる。「環境」が消費の非競合性・非排除性という国際公共財の性質を有するため、地球温暖化や気候変動難民の発生など気候変動問題の解決には、COP21のパリ協定合意に見られる国際的政策協調が不可欠である。しかし、COP3の京都議定書のケースと同じく、パリ協定の合意からも米国は離脱を表明し、政策協調の効力が殺がれつつある。

第二に、政策対応が依拠する科学的知見の不確実性は極めて高い。気候変動は非線形システムによって記述される。予測にはいくつかのステップを伴い、地球温暖化物質の排出量に対して、大気中濃度、気温、そして自然現象としての気候変動それぞれの間の関係には、Riskである既知の未知、Uncertaintyである未知の未知が必要であるため、予測値の確率分布はファットテールを示す。国連気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change, IPCC)の気候感度の予測(表1)によれば、可能性の高い1℃から4.5℃の範囲の発生確率は66%でしかなく、4.6℃になる確率も最大10%もあることになる。こうした科学的知見は、たとえ不確実性が高くても予防原則の視点から必要であると考えられる一方、科学研究に対する財政支出の根拠を揺るがせ、政治介入の余地を与えている(1)。

政策空間再考
(画像=ニッセイ基礎研究所)

金融政策にも、上記の気候変動の問題がそのまま当てはまる。「通貨の番人」である中央銀行は、金融危機時に国際金融秩序の安定性を回復するべく、IMFを通じて国際的政策協調を強いられる。しかしながら、輸出主導の経済発展を遂行するための通貨切り下げ競争の誘因に抗うことは困難である。また、リーマン・ショック時に見られた、住宅価格の下落幅、住宅ローンを原資産とする債務担保証券(CDO)の価格、CDO購入資金の調達手段である資産担保コマーシャル・ペーパー(ABCP)の価格、CDOの保険手段であるクレジット・デフォールト・スワップ(CDS)の価格、そして金融システムが機能不全に陥る金融危機それぞれの間の関係は、非線形システムの中にある。こうした不確実性のため、Ph.D.の資格者で固める米国FRBのスタッフには、リーマン・ショック直前の実質GDPに対する予測が大幅に上振れしてしまった苦い経験がある。

以上述べたように、政策協調の必要性および科学的知見の不確実性という問題を内在させながら、金融政策を取り巻く中央銀行という政策当局およびマクロ経済学者という科学者双方は、気候変動と同じく「不都合な真実」(2)を直視しなければならない時が到来している。「ポスト真実」の時代に「分断された世界」で、あるべき金融政策について議論したい。本稿では、「政策空間」をキーワードに据えて、中央銀行の置かれた政策空間の変化について述べる。とりわけ、政策空間を規定する経済環境のみならず、政策空間を左右する社会・政治環境の撹乱要因にも着目する。最後に、金融政策のニューノーマルについて予測したい。

-------------------------------------
(1)ゲルノット・ワグナー、マーティン・ワイツマン『気候変動クライシス』(山形浩生訳,東洋経済新報社,2016年)
(2)アル・ゴア出演の映画『不都合な真実2:放置された地球』(監督ジョン・シェンク, 2018年)とジョージ・ソロス出演の映画『インサイド・ジョブ:世界不況の知られざる真実』(監督チャールズ・ファーガソン, 2011年)を比較されたい。

政策空間とその決定要因:平時と非常時

政策空間という概念は元々、1980年代あるいは90年代の発展途上国に関して適用されてきた概念である。政策余地の小ささは、国内の経済政策が多国間貿易交渉などの国際的ルールによって縛られてきた状況を指す。国際貿易のみならず、外国為替管理、資本規制、産業政策、労働基準、健康・安全性など多くの経済政策に当てはめられてきた(3)。依って立つ理論は、1952年のティンバーゲン『経済政策の理論』である。ティンバーゲンは、外的要因を考慮したモデルの構造に従って、所定の政策目標を達成するのに最も直接的に効果のある政策手段を割り当てる経済発展の戦略を定式化した。

その後、様々な経済政策を単純化し、金融政策と財政政策のみから成る政策空間に対して、政策割当の問題が議論されるようになった。政策手段のルールとして、FFレートのベンチマークがGDPギャップとインフレ・ギャップの線形結合で表される金融政策のテイラー・ルール、97年に施行され98年には凍結された日本の財政構造改革法において財政赤字対GDP比3%以下に抑えることを謳った財政政策のルールが考えられてきた。アベノミクスの三本の矢は、持続的な経済成長を目的として、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を手段とする政策割当を意味し、金融政策を主たる手段とした。逆に、自国通貨を発行する政府は高インフレの懸念がない限り財政赤字を心配する必要はないとする現代貨幣理論(MMT)は、財政政策を主たる政策手段と考える点で大きく異なる。

単純化された政策空間を決定する要因は、大きく分けて二つある。第一には、統合された政府の予算制約式である。財政当局は、租税(あるいは基礎的財政収支)および国債発行を手段として、景気変動の安定化および所得再分配を目的とする。平時においては、物価水準に関わらず財政運営を行うリカーディアン型と呼ばれる財政規律を伴う政策ルールを採ってきた。最高裁判所に喩えられるほど独立性を付与される中央銀行は、名目銀行間超短期貸借金利および公開市場操作を手段として、物価の安定および金融システムの安定性の目的を達成する。平時においては、名目金利のゼロ下限制約は拘束的ではなく、公開市場操作は短期政府証券の売買に限られる「金融政策の規律」(4)が遵守されてきた。財政当局と中央銀行は、それらを統合した政府の予算制約式において、国庫納付金を通じて繋がる。政府の銀行でもある中央銀行は、貨幣発行独占権を担保とする貨幣鋳造益を財政当局に納付する。

これら政府の予算制約式を構成する手段と目的は、現在のような非常時においては異なる様相を呈する。平時にリカーディアン型のルールを採る財政政策は、債務残高が対GDP240%を超える水準にある現在の日本においても、基礎的財政収支の赤字幅の改善は一向に見られない。低迷する物価水準を引き上げるために財政赤字を減らさない「非リカーディアンディアン」型のルールに転換している可能性が高い。また、平時においてはゼロ下限制約に直面する日本銀行の操作手段であるコールレートは、2016年初のマイナス金利政策の導入以来、マイナスの水準を続けている。平時には政府短期証券中心の日本銀行の公開市場操作を通じた長期国債の保有は、資産残高の80%を超える水準にまで達している。

さらに、平時においては懸念されない国庫納付金の非負制約が、図1から明らかなように、2003年度と2010年度には顕在化している現実もある。日本銀行の独立性を高めるべく1998年に改正された新日本銀行法以降、財政から中央銀行への損失補填が禁じられ、財務的独立性が高められた一方、国庫納付金の非負制約が中央銀行のリスクテイクを抑え、運営上の独立性を制約している可能性がある。

政策空間再考
(画像=ニッセイ基礎研究所)

政策空間の第二の決定要因は、マクロ経済構造である。とりわけ、物価または賃金のインフレ率と失業率のトレードオフの関係を示すフィリップス曲線の形状が重要である。近年におけるフィリップス曲線の形状は、とりわけ日本においてフラット化している。中央銀行がフィリップス曲線をシフトさせることなくインフレ率を高めるため金融緩和するには、大幅な失業率の低下を引き起さざるを得ないことになる。こうした状況を「高圧経済」と呼び、大胆な金融緩和政策の根拠とされてきた。

非常時と言える高圧経済における金融政策は、一般に非伝統的金融政策と呼ばれる。非伝統的金融政策を政策空間の中で表現すると、インフレ期待に働きかける、金融機関のリスクテイクを促すという二つの目的を持ち、マイナス金利からイールドカーブ・コントロールへ、中央銀行のバランスシートの拡大、長期国債の購入の三つの手段に訴える政策であると言える。いずれも平時には想定されてこなかった政策手段であり、二つの目的に対する政策効果には、多くの不確実性を伴っている。とりわけ、日本銀行による長期国債の購入は、GDP以上の規模にまで膨れ上がった資産残高の80%を超える国債保有にまで達し、保有国債の平均残存年数が8年にまで伸びつつある現状は、金融政策が国債管理政策に転化したとの危惧を抱かせる。

-------------------------------------
(3)Jorg Mayer, “Policy Space: What, for What, and Where?” Development Policy Review, 2009, 27 (4), pp. 373-395.
(4)高橋亘「日本の金融政策:平成時代の回顧」RIETI Discussion Paper Series 19-J-055, 2019.