(本記事は、遠藤 誉・田原 総一朗の著書『激突! 遠藤vs田原 日中と習近平国賓』実業之日本社の中から一部を抜粋・編集しています)
中国のGDPは四半世紀で28倍に
田原: 次に中国がこれまでなぜ、大きな発展を遂げることが出来たのか。中国の爆発的なエネルギーはどこから来てその原点、推進力はなんだったのか、その根底に迫ってみたいですね。世界の経済規模は1990年には23兆ドルだったものが、これが四半世紀後の2015年には73兆ドルになった。つまり3倍になっている。
この間、中国のGDP(国内総生産)はなんと28倍になっています。それから中国の貿易額ですが、輸入額が1980年から2015年に84倍。輸出額が124倍という驚異的な伸びを示しました。
天安門事件やドイツの東西のカベが壊れ、日本では平成が始まる直前の1988年、日本のGDPが世界経済の16%を占めていました。アメリカは28%。中国は2%にすぎませんでした。それが2010年には日本を抜いて世界2位の経済規模になり、2018年には世界の16%を占めています。アメリカは依然24%を占めていますが、日本は6%にとどまっています。中国のデータは驚異的な数字です。
イギリスの金融大手の調査では2030年にも中国はアメリカのGDPを抜き去るとの報告があります。最近の中国が発表した「新時代の中国と世界」白書では「天地を覆すほどの変化で人類史上にない奇跡の発展を遂げた」とも頌っています。
遠藤: それも全て、1992年の天皇陛下訪中がもたらしたものです。それよりももっと激しいことが、今後、ハイテク界において起きます。
共産主義はうまくいかないと直感した
田原: 少し私の話をさせてもらうと、小学校5年の時の夏休みに玉音放送が入った。直前の1学期に教師たちは何を言ったか。
「この戦争は世界の侵略国であるアメリカとイギリスを打ち破る。フランス、オランダがアジアの国を植民地にしている。アジアの国を独立させるのがこの戦争である。早く君らも訓練をして、戦争に参加して、名誉の戦死をしろ」と教えられた。
ところが2学期になって、マッカーサー元帥たちアメリカ占領軍が入って来た。教師たちの言うことは180度変わった。「実はあの戦争はやってはならない間違った戦争であった。正しいのはアメリカだ。君らは平和のためにがんばれ」。
これが僕の原点です。えらい大人の言うことは一切、信用できない。マスコミは信用できない。政府は国民を裏切る。そして思想的に右も左もない。だから自分の目で確かめ、知ろうと、ジャーナリストになった。
その私が1965年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に勤務しているとき、初めて海外に行きました。世界ドキュメンタリー会議という会合が、モスクワで開かれました。旧ソ連の時代です。あの当時、私がなぜ選ばれたのか未だに分かりません。
当時、朝日新聞から産経新聞まで、ソ連は素晴らしい国だと言っていたし、僕も素晴らしい国だと思っていた。将来世界は社会主義になる。それが日本の論壇の主な潮流だった。ところがその1年前、フルシチョフがスターリンを批判して失脚しました。
そこで会議主催者にモスクワ大学の学生とディスカッションしたいと言ったら、OKが出た。モスクワ大学で15人ばかりの学生とディスカッションをした。キューバ危機の話題のあと、フルシチョフのことを聞いた。当然、「素晴らしい」という答えを期待していたら、皆、真っ青になって、唇がぶるぶる震えている。主催者側からも発言を差し止められたのです。
これには本当にビックリしました。言論の自由が全くない。そして、共産主義は競争を認めない。平等が建前ですから。競争の自由がないのです。
遠藤: 共産主義だから競争がないというのは正確ではないですね。まだ計画経済だったからでしょう。計画経済は競争がないのです。
田原: 競争もサービスもないので工場、企業のやる気がなくなる。例えばトラックの製造会社がどうしているのかと言ったら、ノルマがある。ノルマってなんだと思ったら、年間にいかに多く鉄を消費・使うかです。小型のトラックを造ったら鉄をあまり多く使わないから、ノルマを達成できない。そこで大型トラックを作る。全部大型なのですよ。
当時、ソ連が世界で一番大きな共産主義の国で、その代表でしたが、言論の自由のない共産主義社会は絶対うまくいかない、とそのとき思いました。
なぜ中国は伸び続けているのか
田原: そう思っていたのに、共産主義の中国経済がバーッと伸びた。そして伸び続けている。何で伸びたのか。ここのところを遠藤さんからお聞きしたい。
遠藤: まず一つは、1978年から改革開放を始めたからです。
田原: 改革開放を進めたのは鄧小平ですね。文革後の経済を立て直すため、外国からの外資や金融を受け入れる経済特別区を作ると同時に、農村増産改革のシンボルだった人民公社を解体して、市場経済への移行ですね。経済特区は今も大きく経済発展した広東省の深圳などが知られています。
遠藤: 鄧小平が改革開放を始めて、それから天安門事件があって、1992年の初頭に「南巡講話」(注)をします。そして天皇陛下が訪中する月に合わせて党大会を開き、自由競争を認めた「市場経済」へ移行したわけです。それを「中国の特色ある社会主義国家」と名付けています。
田原: 社会主義と市場経済は一見、矛盾しています。マルクスレーニン主義から反資本主義、階級闘争を掲げる毛沢東思想は絶対、認めてないですよね。なんで鄧小平が競争を認めたのですか。
遠藤: 天安門事件で西側諸国による対中経済封鎖を受けていた。このままでは中国共産党による一党支配体制は崩壊するぞと、中国は覚悟を決めていた。恐怖におののいていたと言っていいでしょう。おまけに1991年12月に旧ソ連が崩壊したのですから。ソ連はそれまでは世界に君臨する一番大きな共産主義国家でしたが、あのソ連が崩壊した。鄧小平は「このままだと中国も崩壊すると」思ったのです。
旧ソ連崩壊の1か月後、92年の1月、鄧小平は中国大陸の南に行って、「南巡講話」を行います。汚い表現ですが、彼の言葉なのであえてご紹介しますと、「改革開放は纏足の女のようにヨチヨチ歩きではダメだ」とハッパをかけたのです。
鄧小平は「客家」です。客家には纏足の習慣がないので、かなりの侮蔑語と言っていいでしょう。
(注)【南巡講話】鄧小平が1992年1月〜2月にかけて武漢、深圳、珠海、上海などを視察し、重要な声明を発表した。天安門事件で改革開放政策に急ブレーキがかかったが、この視察で鄧小平は「市場経済にも計画があり、社会経済にも市場がある」と改革開放路線の重要性を訴えた。
中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
1941(昭和16)年、中国吉林省長春市生まれ。国共内戦を決した長春食糧封鎖「卡子(チャーズ)」を経験し、1953年に帰国。中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。
著書に『中国がシリコンバレーとつながるとき』(日経BP社)、『ネット大国中国言論をめぐる攻防』(岩波新書)、『卡子中国建国の残火』(朝日新聞出版)、『毛沢東日本軍と共謀した男』(新潮新書)、『「中国製造2025」の衝撃』(PHP研究所)、『米中貿易戦争の裏側』(毎日新聞出版)など多数。
ジャーナリスト
1934(昭和9)年、滋賀県生まれ。1960年、早稲田大学を卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。1977年、フリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。現在、「大隈塾」塾頭を務めながら、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日) など、テレビ・ラジオの出演多数。
著書、共著多数あり、最新刊に『令和の日本革命 2030年の日本はこうなる』(講談社)がある。
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