(本記事は、今泉清氏の著書『ONE TEAM!ラグビー日本代表に学ぶ最強組織のつくり方』日本能率協会マネジメントセンターの中から一部を抜粋・編集しています)

ラグビー
(画像=PIXTA)

「貢献の連鎖」が揺るぎないチームの関係性を築く

私が早稲田のラグビー部に入部したとき、150人を超える部員がいた。

当然ながらレギュラー争いも熾烈なものがあった。私は運にも恵まれ、一年生のシーズン途中からレギュラーとして試合に出られるようになったが、なかには4年間レギュラーになれずに終わる部員もいた。

私は高校時代までフランカーとしてプレーしていた。

フランカーと言えば、日本代表チームでは主将のリーチ・マイケルがプレーする攻守の要ともいえる花形のポジションである。

だが、当時早稲田の監督だった木本建治さんにキックの才能を見出され、ウイングにコンバートされ、試合の行方を左右するキッカーの役割を担うことになる。

一年生という立場にありながら、自分のキックで試合の勝敗が左右されるポジション。プレッシャーを感じないわけがない。

それでも、自分のキックの精度が上がれば、チームの勝利に貢献できる。そんな気持ちで自分と向き合い、必死に練習に取り組んだ。

調子が悪いときには、全体練習が終わってから2時間以上、足がつるまで黙々とゴールに向かってキックを蹴り込んだこともあった。

あるとき、思うようにキックが蹴れない自分に苛立っていると、試合に出られない何人かの四年生が自分たちの練習を止めて、何も言わずに私が蹴ったボールの球拾いをしてくれたことがあった。

そんな四年生の姿を見た私は、心底自分が情けなくなった。

試合に出たくても、出ることができない部員たちもいるのだ。そんなチームメイトの貢献の思いが、蹴り返してくれるボールに伝わってきたとき、私は涙を止めることはできなかった。

「このチームには自分を支えてくれる人がこんなにもいるんだ。試合に出られないこの先輩たちのためにもベストを尽くすしかない!」

そうした気持ちで、必死になって練習に励んだ。

日々のつらい練習を共におこない、競争意識が生まれ、切磋琢磨してポジション争いをしている仲間だからこそ、最後には「今泉なら俺が出られなくてもしょうがない。こいつのために何か役に立ちたい」という貢献の精神が芽生えていった。これが「ONE TEAM」のあるべき姿だと私は思う。

気づけば、全体練習後のゴールキック練習でボールを拾ってくれる先輩たちが増えていった。貢献の連鎖である。

私が必死で努力している姿に、「サポートしよう」「何か役に立ちたい」と考えてくれる先輩がどんどん増えていったのだ。何も語らない先輩たちの思いが、私の胸に一体感として伝わってきた。

私が現役時代、日本の大学ラグビーで順当に勝ち進むと、「最後の公式戦」は社会人の優勝チームと戦う日本選手権の決勝戦となる。

1987年1月15日、決勝まで勝ち進んだ早稲田の対戦相手は東芝府中。舞台となった4万8千人収容の国立競技場は超満員、まるで地鳴りのように歓声が響いた。

「今泉が試合に出るのは当然だ。しっかりサポートしていこう」と思わせるプレーを先輩たちに見せる。そう思いながら懸命にプレーした。

ところが、試合開始早々、私は唇が裂ける怪我を負ってしまう。それでも、キッカーである私が蹴るゴールキックはすべて成功させた。

両者譲らず、拮抗した試合展開が続いたが、土壇場で早稲田のベンチに近いところでペナルティを獲得した。

そのキックを蹴るとき、これまで私の練習を手伝ってくれた四年生の声援が聞こえた気がした。その瞬間、私はこれまで自分を犠牲にして私の練習に付き合ってくれた四年生の姿が頭の中をよぎり、「先輩たちの貢献を絶対に無駄にしない。絶対に決める」と強く思った。

その瞬間、不思議と緊張感はどこかに消えてなくなった。平常心で蹴ることができたボールは先輩たちの熱い思いを乗せ、きれいな放物線を描きながらポールとポールの間に吸い込まれ、早稲田は見事日本一に輝いたのだった。

チームの「共通言語」を見つけ出せ!

私が現役を引退してすぐの2001年、ある方から連絡をいただいた。清宮克幸さんだ。

早稲田大学ラグビー部で私のひとつ先輩にあたり、早稲田のみならず、サントリーでも共に汗を流した「戦友」と呼べる人だ。

清宮さんの功績をここで詳しく説明するまでもないが、現役時代は早稲田で全国大学選手権と日本選手権で優勝、その後サントリーでも全国社会人大会と日本選手権で優勝という、輝かしい戦績を持つ。

そんな清宮さんから私は、このような話をされたのだ。

「俺は現役を引退する。そして早稲田の監督をやることになった。清をコーチとして招聘したい。俺の右腕となって働いてくれないか」

私は、清宮さんほどのリーダーシップを持った人と仕事ができるワクワク感から、即答でこのオファーを快諾した。

清宮さんのリーダーシップについては、後の第4章で詳しく触れることにするが、清宮さんが早稲田の監督に就任したときの、あるエピソードをここで紹介したい。

当時の学生王者は早稲田ではなく、関東学院大学だった。そこで、清宮さんは「王者である関東学院を倒す」という明確な目標を部員たちに与えた。

それと同時に、清宮さんは部員たちにあるアンケートに答えさせた。「自分たちの強みと弱みは何か?」についてである。ところが、部員たちの大半から出た回答は、強みよりも弱みのほうが多かった。それでも清宮体制での1年目、早稲田は対抗戦優勝、大学選手権では準優勝という成績を残した。

シーズンが終了すると、清宮さんは部員たちにもう一度同じアンケートに答えさせた。すると、多くの部員たちが自分たちの強みをしっかり書けるようになっていたのだ。

迎えた2年目のシーズン。早稲田が掲げたスローガンは、「ULTIMATE CRUSH(アルティメット・クラッシュ)」。「徹底的に相手を叩きのめす」という意味のスローガンである。

実は、こうしたチームの共通言語をチーム全員がしっかりと理解したうえで共有していると、やるべきことが明確化されやすいといえる。

日本代表チームの「ONE TEAM」というスローガンも、まさにその好例といえよう。つまり、こうしたビジョンを示すことで自ずと目指すベクトルが定まり、チームの一体感をより高めてくれるのだ。

ではなぜ、この「ULTIMATE CRUSH」というスローガンが生まれたのか。そこには、ある苦い経験が隠されている。

それは、清宮体制1年目の大学選手権決勝戦にさかのぼる。相手は王者関東学院だったのだが、この試合で早稲田は16対21で敗れた。

勝負の世界に身を置けば、勝つときもあれば負けるときだってある。だが、この日の負けは相手にちょっとした隙をみせてしまったことにあった。

そこで、2年目はどんな相手でも全力で叩き潰す。一瞬の隙も見せずに徹底的に勝ちきる。

そうした意志のもと、このスローガンが生まれたのだった。

この苦い経験から導き出された課題を次に生かすため、必要なスキルを身につけるための練習に徹底的に取り組んだ。

とくに力を入れたのが対人プレー、つまりはボディコンタクトの強化と、スクラムやラインアウトといったセットプレーだ。そしてついに、早稲田は27対22で関東学院に勝利し、13年ぶりに大学選手権の栄冠を手に入れた。

その後も清宮さんは監督として次々とタイトルを獲得していき、早稲田はふたたび常勝軍団と呼ばれるまでに変貌した。

さらに圧巻なのは清宮体制5年目、2006年の第43回日本選手権の準々決勝。早稲田はその年社会人トップリーグで優勝目前だったトヨタ自動車と対戦したのだが、接戦の末トヨタを28対24で破り、大学チームとしては18年ぶりに社会人チームに勝利するという快挙を成し遂げた。

まさに、清宮体制が5年という歳月をかけて実らせた大きな成果だった。

ONE TEAM!ラグビー日本代表に学ぶ最強組織のつくり方
今泉 清
元ラグビー日本代表、人材育成コンサルタント。1967年生まれ。大分舞鶴高から早稲田大学に入学。天衣無縫ともいえるプレーぶりから早稲田ラグビーを代表する選手として活躍、在学の4年間で関東大学対抗戦優勝2回、大学選手権優勝2回、日本選手権優勝1回と早稲田ラグビー黄金期をつくる。1990年対抗戦明治との優勝決定戦でのロスタイム70メートル独走トライは今もラグビーファンには語り継がれている。大学卒業後はラグビー王国ニュージーランドでプレー。一流のラグビーを経験した後、名門サントリーに加入。1995年にはラグビーW杯南アフリカ大会日本代表に選出されるなど華々しい経歴を持つ。引退後は、母校・早稲田大学ラグビー部のコーチに就任し、清宮克幸監督の右腕として結果を出すと、その後サントリーのプレイングコーチに就任、後進の指導にあたった。現在は、ラグビーを通じて取得した『組織論』をテーマにした人材育成コンサルタント及び講演家として活動しているほか、CSテレビチャンネルJ SPORTSで世界のラグビー解説者を務めている。著書に『オールブラックス圧倒的勝利のマインドセット』(学研プラス)、『勝ちグセ。』(日本実業出版社)などがある。

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