(本記事は、今泉清氏の著書『ONE TEAM!ラグビー日本代表に学ぶ最強組織のつくり方』日本能率協会マネジメントセンターの中から一部を抜粋・編集しています)

イノベーション
(画像=PIXTA)

史上最強の早稲田をつくりあげたイノベーションリーダー清宮克幸

私のラグビー人生において巡り会ったリーダー。やはり清宮克幸さんは外せない。

選手としての功績はすでに述べたとおりだが、引退後は早稲田大学ラグビー部の監督に就任し、関東大学対抗戦優勝、13年ぶりに全国大学選手権優勝など早稲田ラグビー黄金期を復活させた。

その後はサントリー、ヤマハの監督としてそれぞれタイトルを獲得、現在は日本ラグビーフットボール協会の副会長として日本ラグビーの発展に力を注いでいる。

清宮さんのリーダーとしての資質は、先に紹介したグラハム・ヘンリーに似ているかもしれない。

というのも、私たちが早稲田で現役だったときにグラハム・ヘンリーによって短縮された「1日2時間」の練習は、知らぬ間にもとの1日5、6時間という長時間練習に戻ってしまっていた。伝統というのはときに厄介なものなのだ。

そこで、清宮さんが早稲田の監督になったときには再びこの「1日2時間」という練習時間に変えた。その理由として、当時の早稲田ラグビーに必要なものが「集中と効率」であると清宮さんは説明していた。

練習時間が減ったことで、選手たちが自らの課題を掲げられるようになった。

清宮さんはそうした選手たちの課題や弱点を補うために選手間のコミュニケーションが綿密にとれるように促し、目的と手段を明確にしていった。

さらに、清宮さんはそれまで早稲田で当たり前とされていた根性論に終止符を打ち、科学的なラグビー戦略を推し進めていく。

「負けたらシゴキ」といった伝統に縛られるのではなく、「なぜ負けたのか?」「なぜトライが取れなかったのか?」といったことを分析してデータ化した。

そのデータをもとに、これまでなかなか見えづらかった速さ、強さといったものを数値化し、そこから抽出されたデータをもとにそれぞれが弱点を克服するための練習を徹底していった。

また、ハード面に関してもフィットネスを強化するトレーニングや芝のグラウンドの整備のほか、まだ当時では考えられなかった大学ラグビーチームとスポーツメーカーとのスポンサー契約までこぎつけた。

そんな清宮さんのリーダーシップについてもまた、いろいろなところで語り尽くされている。

そこで、私なりにとくに印象的なエピソードを紹介したい。

私は学生時代、ライバル校の選手たちから「今泉は何をしてくるかわからないから要注意だ」と恐れられていた。事実、私は相手が予想もつかないようなプレーが好きだったのだが、当時の早稲田は選手を型にはめる手段が常識化していたのだ。私が一年のとき、よくコーチに「今泉、ボールを持ったら前に行かなくていいから後ろを向け」「そんなプレーは早稲田のプレーじゃないだろ!」と注意されることが多かった。

そんなとき、清宮さんが私にこう言ったことを今でも忘れない。

「今泉、お前の好きなようにやっていいぞ」

私の一年先輩の清宮さんは三年で副主将、四年で主将になったのだが、このときすでに早稲田ラグビーを引っ張っていたのはまちがいなく清宮さんだった。

ではなぜ、清宮さんは私に「自由」を与えたのか。

ラグビーでは攻撃や守備の型、つまりは基本を日頃から練習するわけだが、単純に型だけにとらわれたラグビーをやっていても試合に勝つことはできない。なぜなら、型どおりの攻撃や守備というのは当然相手にとっても守りやすいし、攻めやすいからだ。そこで勝つための打開策が「個の力」であり、清宮さんは私を信頼してくれたからこそ、自由なプレーという裁量を与えてくれたのではないだろうか。

リーダーが選手に「好きにやっていいぞ」と裁量を与えるときには、どこかに相手を信頼する気持ちがあるのだ。

清宮さんはそこから「個の力」を大事にしながらチームをまとめていき、「史上最強の早稲田」をつくりあげていったのだった。

人心掌握術に長けたサントリーのリーダー土田雅人

「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」

これは言わずと知れたサントリー創業者である鳥井信治郎さんが残した名言である。正確にいえば、この言葉は名言というよりも鳥井さんの口癖だったという。

1899年の創業以来、サントリーでは常に「やってみよう。やってみなければわからない」というチャレンジ精神を忘れず、今でも社員一人ひとりが鳥井さんのDNAをしっかりと受け継いでいる。

私自身、鳥井さんのこの言葉に感銘を受けてサントリーへの入社を決意した。そしてこの「やってみなはれ」という精神は私にとって、仕事だけではなく、ラグビーにおいても大いに役立った。

たとえ成功できなくても、チャレンジしないことのほうがきっと後悔してしまうということを、この「やってみなはれ」という言葉から私は学ぶことができたからだ。そうした心構えで日々の練習や試合でも積極果敢にチャレンジすることができたからこそ、私は日本代表チームに選出されるまでの選手になれたのかもしれない。ところが、サントリーのラグビー部に入部した当初は、私は期待よりも落胆のほうが大きかった。

当時のサントリーは毎日練習がおこなわれるわけではなく、週に4日だった。さっと集まって軽い練習が始まり、終わったらみんな仕事に戻っていく。練習メニューにしても、その日の思いつきで練習やっているという雰囲気があった。必要な練習は個人練習でやればいい。そういう考え方だ。

たしかに、社会人であるならば個々で課題を見つけ、個々で努力するといった姿勢も大事なのかもしれない。だが、そもそも当時のサントリーには「ぜったいに勝つんだ」というモチベーションが低かったように思う。

そんな矢先、当時のサントリーの社長であった佐治信忠さんが「うちのラグビー部を強くしてくれないか」と白羽の矢を立てたのが土田雅人さんだ。土田さんもまた、私のラグビー人生で出会った優秀なリーダーのひとりだ。

土田さんは同志社で平尾誠二さんと共に大学選手権3連覇に貢献し、大学卒業後にサントリーへ入社。1995年にサントリーで現役引退して監督就任1年目で日本選手権初優勝に導いた。その後、一度は退任するものの再びサントリー監督として2001、2002年にチーム初の日本選手権2連覇を果たした名将だ。

そんな土田さんは、選手のモチベーションを上げる人心掌握の天才だった。

「おい、清。うちのチームはお前次第なんやで。お前がやらんかったらどないするねん!」

いつも二人きりになると、こんなふうに私のモチベーションを上げてくれたし、ほかの選手たちも、同じように土田さんによってモチベーションが高められていたように思う。

時間をかけて選手一人ひとりと綿密なコミュニケーションをとり、そこから個の強みをあぶり出し、最大限チームに活かす。次第にチーム全体が同じベクトルを向きはじめ、チームに一体感が生まれていった。

土田さんは個の強みを最大化し、弱小だったサントリーをたった1年で日本選手権の頂点に到達するチームに成長させたのである。

ではなぜ、監督就任1年目であれほどの快挙を成し遂げられたのか。

これは後に聞いた話なのだが、当時の土田さんはまだ監督としては未熟だった。そこで、ある人物にアドバイスをもらっていたという。平尾誠二さんだ。

当時、社会人リーグで無敵を誇っていた神戸製鋼の主将を務めていた平尾さんに、「飯でも食おう」と何かしらの口実をつくっては神戸に出向き、アドバイスをもらっていたそうだ。

土田さんは真摯に平尾さんのアドバイスに耳を傾けた。平尾さんも、土田さんの相談に〝自分事〟として真剣に向き合った。

するとその年、運命のいたずらのように両者は対戦することになる。

勝ったのは、サントリーだった。

ONE TEAM!ラグビー日本代表に学ぶ最強組織のつくり方
今泉 清
元ラグビー日本代表、人材育成コンサルタント。1967年生まれ。大分舞鶴高から早稲田大学に入学。天衣無縫ともいえるプレーぶりから早稲田ラグビーを代表する選手として活躍、在学の4年間で関東大学対抗戦優勝2回、大学選手権優勝2回、日本選手権優勝1回と早稲田ラグビー黄金期をつくる。1990年対抗戦明治との優勝決定戦でのロスタイム70メートル独走トライは今もラグビーファンには語り継がれている。大学卒業後はラグビー王国ニュージーランドでプレー。一流のラグビーを経験した後、名門サントリーに加入。1995年にはラグビーW杯南アフリカ大会日本代表に選出されるなど華々しい経歴を持つ。引退後は、母校・早稲田大学ラグビー部のコーチに就任し、清宮克幸監督の右腕として結果を出すと、その後サントリーのプレイングコーチに就任、後進の指導にあたった。現在は、ラグビーを通じて取得した『組織論』をテーマにした人材育成コンサルタント及び講演家として活動しているほか、CSテレビチャンネルJ SPORTSで世界のラグビー解説者を務めている。著書に『オールブラックス圧倒的勝利のマインドセット』(学研プラス)、『勝ちグセ。』(日本実業出版社)などがある。

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