本記事は、別所宏恭の著書『ネクストカンパニー 新しい時代の経営と働き方』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています
効率化を突き詰めると「人間の居場所」がなくなる
デジタルを使う上で、これからの時代に強く意識する必要があるポイントがあります。それは、経営管理的な視点でお話ししましたが、「効率化」を目的にしないことです。
ITシステムを有効活用すれば効率は劇的に上がります。企業によっては、これまでの仕事がばからしくなるほどの変化があるでしょう。しかし、それはあくまでも手段です。
事務作業の手間を大幅に圧縮した結果、つくる商品やサービスがこれまで通りであっては問題です。残業代などの圧縮はできるので、企業の寿命を伸ばす効果はあると思いますが、延命効果は長くても10年くらいでしょう。
そうではなく、目的は「自社をよりよくすること」であり、具体的には、効率化で確保できた時間を情報収集や深い思考に費やすことです。
これは「自社で文化を生む試み」と換言できます。
このあと詳しく述べますが、かつての特権階級は、庶民や奴隷に労働を担わせて、生まれた余暇で文化を生み、育てました。この方法論を、苦しむ人を生む形ではなく、事務作業をデジタルに担わせて時間をつくるために使う。そして、その時間をクリエイティブに注ぎ込んで魅力的な商品・サービスを開発し、何十年と生き残っていく企業になる―。
これこそが、デジタルの力であり、これからの企業の常識であり、DXが進んでいない企業の目指すところです。
大量生産・大量消費時代は、効率化が商品力(=経費が減ることで価格が安くなること)につながるため、効率化を「目的」にしても勝つことができました。また、そうであるからこそ手段と目的が混同されてしまうのですが、中小・ベンチャー企業がその方法論で2020年代を生き残るのは難しいでしょう。
そして手段としても、効率化の追求はこれからの社会に合いません。
なぜなら、効率化を突き詰めると、最終的には人間の居場所がなくなるからです。
チャップリンの映画『モダン・タイムス』の時代から、人間の自由と効率化との戦いは変わらぬテーマです。産業革命は機械がすべてを担う革命ではなく、むしろ機械が上位で、機械を止めないために人間が監視されてしまう。決まったものを大量生産するにはベルトコンベヤー方式が最も効率的ですが、ベルトコンベヤーを止めないように工員が酷使されてしまいます。
先にも述べた船井電機が、かつてテレビなどを世界一安くつくれたのも、ベルトコンベヤー方式の効率を極限まで追求したからです。毎日少しずつベルトコンベヤーの動きを早くして、どこかで失敗が起きるとみんなで集まり、「この速度でできない理由は何?」と考えて改善したそうです。
この改善を考えるプロジェクトマネジャーらはやりがいがあるでしょう。また、現場の工員も初めのうちは興奮があったかもしれません。しかし、このスピードアップ→失敗→改善→スピードアップをある程度繰り返していると、現場で働く方々は、チャップリンのように次第に追い詰められていくのではないでしょうか。
要するに、効率化を極限まで追い求めると、経営者レベルでは影響が出なくとも、社員に負担がかかり、現場の空気が殺伐としてしまうのです。こうした企業は、大量生産・大量消費のビジネスモデルにしか対応できず、もはや新しい価値を生み出すことはできません。
また別の見方として、自動改札機のように、ミスをする人間よりも、デジタルに任せたほうが安心できる仕事もたくさんあります。つまり効率化の先には、精神的にも、そして場合によっては物理的にも、人間の居場所がなくなってしまう可能性があるわけです。
私たちが目指すべきは、いたずらに人間の居場所を奪うビジネスではないはずです。
デジタルは「人間の居場所」を増やしている
デジタルが人間にもたらしたのは何か?
それは、「奴隷解放」です。ITやコンピューター制御で稼働する機械によって、人間は多くの「機械的」な作業から解放されたのです。
今、「ITで代替可能」とされる仕事を実際にしている方や、今後、「AIが進歩すればなくなる」と予測されている職業に就いている方は、デジタルを敵のように思われるかもしれません。しかし、デジタルは常に健気に、不平も不満も漏らさずに人間に奉仕しています。もちろん、デジタルが人間に悪影響を与えるケースもあるにせよ、それも人間の使い方ひとつです。
そもそも、機械もPCもなかった時代から、為政者の方針ひとつで取り潰しになってしまった仕事や産業は数え切れないほどあります。少し冷たい言い方に思われてしまうかもしれませんが、ITで代替可能な仕事をしている方は、それまでの仕事で積み重ねたスキルを最も活用できる、「人間にしかできない仕事」を探すよりほかありません。
なぜなら、この流れは、今後も止まるとは考えられないからです。
デジタルには、この「奴隷解放」という大義があるので、人類がある限り進化は続くでしょう。人間はその流れに逆らうのではなく、むしろその流れに合わせて、自分の活躍する場を探すべきです。
そもそも、デジタルは人間の居場所を増やしているのです。
目が見えない方、手が使えない方でもPCを使えるのも、デジタルあってこそ。耳が聞こえない方のコミュニケーションにも大いに活躍します。
そして、そのような仕事があるのは、人間が文化を築いてきたからです。ただ生きて自給自足をするというだけなら、人間のやるべきことは、そのほとんどが肉体労働になってしまいます。その場合、体の弱い方や障害を持って生まれた方などの活躍できる場所は大きく制限されるでしょう。今が障害者にとって問題のない社会だとはまったく思いませんが、活躍できるフィールドが広がっていること、そしてデジタルの進歩によってさらに広げられることは、紛れもない事実です。
かつては文化が生まれる場所は「人の集まる場所」ではなかった
では、「デジタルが障害者をはじめ、社会的弱者やマイノリティに活躍する場所を与えていること」が、なぜ文化によるものなのか。
先ほど「人が集まる場所で文化は生まれる」と述べましたが、このように言えるのも、日本なら江戸時代に庶民の文化が花開いて以降の数百年の話でしかありません。
それ以前は、「特権的に豊かな層がいる場所」でしか主要な文化は花開きませんでした。なぜなら、文化は余暇があってこそ楽しめるもので、かつての庶民は肉体労働に明け暮れるだけで1日が簡単に終わってしまっていたからです。
古くは万葉集に防人の歌が収録されているように、苦しみを紛らわせるために歌を詠む、口ずさむといった文化は庶民の間にもあったとは思います。しかし、それこそ今日のデジタルの世界のように場所も費用もあまりかからずに大量の記録をできるわけではありませんから、たまたま特権階級の心の琴線に触れて書き留められたものや、辛うじて口伝などで伝わってきたもの以外は、ほとんど残っていません。
そのような理由もあり、今日、私たちが歴史の積み重ねを感じる美術や工芸・学問・文学・音楽・美食などの深遠な文化は、「労働の必要があまりない特権階級」が育んできたものといえます。
見方を変えれば、かつて文化には、ほぼハイカルチャーに属するものしかなかったわけです。それ以外の文化が勃興したのも、人間が豊かになったがゆえです。今はむしろ、ローカルチャー(ポップカルチャー)、つまり大衆文化を愛する人のほうが多い時代なのかもしれませんが、その源流―楽しむことに時間とお金を使う意識や、文化に関係する作業が仕事になる流れは、世界各国の王侯貴族たちの間だけで育まれてきたのですから。
このように、デジタルは一部の特権階級だけの占有物ではなく、万人に開かれ、人間の居場所を増やすものであるからこそ、この流れが止まることはないのだと思います。
デジタルに意思はありません。ですが、デジタルの歴史を推進してきた偉大な経営者たちは、総じて「世界をよりよいものにする」という意思を持っています。
世界の化石燃料への依存を止め、持続可能なエネルギーの確立を志向するイーロン・マスク氏が、2014年にテスラの持つ特許を開放すると決めたとき、「真の競争相手は、ごくわずかな『テスラ以外のEVを開発する他社』ではなく、世界中で毎日大量に生まれるガソリン車だ」と述べていたのは非常に象徴的です。
まだまだ世界規模で見れば、奴隷のような厳しい労働を強いられる人たちはたくさんいます。そのような環境を変えるには、おそらく正義感に訴えるよりも、使役者に「この仕事は機械やAIに任せよう」と実利から思わせるほうが手っ取り早いのではないでしょうか。
優れたシステムを世界中に広め、ありとあらゆる人が自由に文化に触れ、楽しめるようになるまで、少なくともデジタルの進化は止まらないと私は考えます。
1965年兵庫県西宮市生まれ。横浜国立大学工学部中退。独学でプログラミングを学び、大学在学中からシステム開発プロジェクトなどに参画。1989年レッドフォックス有限会社設立、1999年株式会社に組織変更し、代表取締役社長に就任。モバイルを活用して営業やメンテナンス、輸送など現場作業の業務フローや働き方を革新・構築する汎用プラットフォーム「SWA(Smart Work Accelerator)」の考え方を提唱し、2012年に「cyzen(サイゼン/旧称GPS Punch!)」のサービスをローンチ、大企業から小規模企業まで数多くの成長企業・高収益企業に採用される。
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