3 ―― 賃上げの重要性

3 ―1 依然として厳しい雇用所得環境

当面は貯蓄率の引き下げによって個人消費の回復を実現することが可能だが、貯蓄率が平常時の水準に戻った後は、従来と同様に可処分所得の動向が個人消費を左右することになるだろう。コロナ禍では経済対策による各種の給付金が可処分所得を大きく押し上げているため、雇用者報酬と可処分所得の動きが乖離している(図表 - 8)。しかし、新型コロナ対策一巡後の可処分所得は、その約9割を占める雇用者報酬との連動性を高めるだろう。

経済正常化の鍵を握る個人消費
(画像=ニッセイ基礎研究所)

GDP統計の実質雇用者報酬は、最初に緊急事態宣言が発令された2020年4-6月期に急速に落ち込んだ後、2020年末にかけて持ち直したが、2021年入り後は横ばい圏の推移にとどまっている。

実質雇用者報酬(*:5)の内訳を見るために、実質雇用者所得(雇用者数×一人当たり名目賃金÷消費者物価)の動きを確認すると、2020年4-6月期に雇用者数、一人当たり名目賃金ともに大きく落ち込んだが、2020年後半以降は持ち直しの動きが続き、2021年4-6月期には前年比で増加に転じた。しかし、景気の持ち直しが限定的にとどまる中で、名目賃金は伸び悩みが続き、雇用者数は2021年10-12月期には減少に転じた。原油をはじめとした資源価格の高騰によって消費者物価が上昇に転じたことも実質所得の押し下げ要因となっている。2021年10-12月期の実質雇用者所得は前年比▲0.8%、コロナ前の2019年と比較した前々年比では▲2.7%となった(図表 - 9)。

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(*:5) 雇用者報酬は雇用者所得(雇用者数×一人当たり賃金)に近い概念だが、賃金・俸給のほかに雇主の社会負担(厚生年金の負担金、退職一時金等)などが含まれるため、雇用者所得とは動きが若干異なる。


3 ―2 ベースアップが重要

消費者物価(生鮮食品を除く総合)はゼロ%台の伸びにとどまっているが、原油高、円安に伴うエネルギー、食料品価格の高い伸びが続く中、消費者物価を▲1%以上押し下げている携帯電話通信料の大幅値下げの影響が縮小する2022年度入り後には1%台後半まで伸びを高める公算が大きい。名目賃金の伸び悩みが続けば、物価の上昇ペース加速によって実質賃金の低下幅はさらに拡大するだろう。

岸田政権は3%の賃上げ目標を掲げており、2022年度税制改正では「賃上げ促進税制」が盛り込まれた。 ただし、賃上げ促進税制自体は、アベノミクスが始まった2013年度に創設されたものであり、その後修正を繰り返しながら継続してきた。しかし、これまでは賃金の伸びが大きく高まることはなく、目立った成果をあげることはできなかった。

今回の改正では、減税の適用要件の変更(たとえば、大企業の場合、「新規雇用者への給与総額が前年度比2%以上」から「継続雇用者への給与総額が前年度比3%以上」に変更)、税額控除の対象、控除率の変更などが行われたが、これまでの制度を抜本的に変えるようなものではない。税制改正による効果は限定的にとどまる可能性が高いだろう。

労務行政研究所の「賃上げに関するアンケート調査」によれば、2022年の賃上げ見通し(対象は労・使の当事者および労働経済分野の専門家約500人)は平均で2.00%と、前年を0.27ポイント上回った(図表 - 10)。2021年に1.86%と8年ぶりに2%を下回った春闘賃上げ率(厚生労働省の「民間主要企業賃上げ要求・妥結状況」)は、2022年には再び2%台となる可能性が高いが、政府が目標とする3%には遠く及ばないだろう。

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一般的に賃上げ率の指標として用いられる数字は、定期昇給を含んだものであることには注意が必要だ。労働市場の平均賃金上昇率に直接影響を与えるのは定期昇給を除いたベースアップである。中央労働委員会の「賃金事情等総合調査」によれば、賃金改定率のうち定期昇給分は概ね1.7~1.8%程度で推移している(図表 - 11)。2022年の春闘賃上げ率が2%程度まで上昇したとしても、定期昇給を除いたベースアップは0.2~0.3%程度にすぎない。消費者物価は2022年度を通して1%台の伸びが続くことが予想されるため、ベースアップとの連動性が高い所定内給与は実質ではマイナスの伸びが続く公算が大きい。

3 ―3 賃上げを巡る環境は悪くない

新型コロナウイルス感染症の影響で経済活動の水準は2020年度に急速に落ち込み、その後の持ち直しも緩やかにとどまっている。その一方で、有効求人倍率が1倍を上回り、法人企業統計の経常利益がコロナ前の水準を回復するなど、労働需給や企業収益といった賃上げに大きな影響を及ぼす指標は経済全体に比べるとそれほど悪化していない。

賃上げを巡る環境を過去と比較するために、労働需給(有効求人倍率)、企業収益(売上高経常利益率)、物価(消費者物価上昇率)について、過去平均(1985年~)からの乖離幅を標準偏差で基準化してみると、バブル崩壊後の1990年代前半から2010年代前半までの約20年間は、いずれの指標もほとんどの年でマイナスとなっていた。アベノミクス景気が始まった2013年には企業収益の改善を主因としてプラス圏に浮上し、その後労働需給の改善が顕著となったことから、2018年には3指標を合わせた上振れ幅がバブル期を上回る過去最高水準となった。2019、2020年は景気後退や新型コロナウイルス感染症の影響で3指標ともに悪化したが、明確なプラス圏を維持しており、2021年は企業収益の改善を主因として持ち直している(図表 - 12)。

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3 ― 4 賃上げの要求水準が低い

このように、アベノミクス景気から続いてきた賃上げを巡る良好な環境は、コロナ禍でも大きく崩れていない。それにもかかわらず、これまで賃金上昇が本格化しなかった一因は、組合側の要求水準が上がらなかったことだ。

連合傘下組合の賃上げ要求と実績の関係を長期的にみると、1990年代後半までは4%以上の賃上げ要求に対し、実際の賃上げ率は3%前後となっていた。その後は雇用情勢が厳しさを増す中で、組合が賃上げよりも雇用の確保を優先したこともあり、定期昇給分(ベースアップなし)に相当する1%台後半の要求水準という期間が長く続いた。

アベノミクス景気では、人口減少・少子高齢化を背景とした企業の人手不足感の高まりもあって労働需給が逼迫し、賃上げを巡る環境も大きく改善した。そうした中で、組合の賃上げ要求は、2013年の2.11%から2014年に2.95%、2015年に3.75%と上昇したが、2016年に3.16%に低下してからは概ね3%程度の水準となり、実際の賃上げ率は要求水準を1%程度下回る2%前後で推移している(図表 - 13)。

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賃金を巡る環境が良好であったにもかかわらず、賃上げ要求水準が上がらなかった背景には、デフレマインドが払拭しきれていないことがあると考えられる。デフレ期にはベースアップがなくても物価の下落によって実質賃金が上昇するため、賃上げの重要度は低かった。しかし、2013年の日本銀行による異次元緩和開始以降、少なくとも持続的に物価が下落するという状況ではなくなった。しかし、その一方で持続的、安定的な物価上昇が実現したわけでもないことから、労使ともにデフレマインドが根強く残っており、このことが本格的な賃上げにつながらない一因となっている可能性がある。

厚生労働省の「賃金引上げ等の実績に関する調査」によれば、賃金改定に当たり「物価の動向」を重視した企業の割合(複数回答)は1980年には60%を上回っていた。その後の物価安定に応じてその割合は急速に低下したが、1990年代後半までは10%以上の水準を維持していた。

しかし、1999年に10%を割り込んでからは20年以上にわたって一桁の低水準が続き、2021年は0.8%と過去最低となった。デフレを脱しつつある現在でも上昇する兆しは見られない(図表 - 14)。

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2021年度の消費者物価上昇率はほぼゼロ%にとどまるとみられるが、異次元緩和が開始された2013年度から2020年度までの平均は0.7%(消費税率引き上げの影響を除くと0.4%)となっている。少なくとも持続的に物価が下落するデフレという状況ではなく、ベースアップがなければ実質賃金が目減りしてしまう環境となっている。

ベースアップと消費者物価上昇率の関係を長期的にみると、1990年代半ばまではベースアップが消費者物価上昇率を安定的に上回るという関係があった(図表 - 15)。2022年度の消費者物価上昇率は、エネルギーや食料品価格の高い伸びを主因として1%台半ばとなることを予想している。2022年の賃上げ率はベースアップでゼロ%台前半にとどまり、実質賃金の伸びがマイナスとなることは避けられないが、中長期的にはベースアップが物価上昇率を安定的に上回るような賃上げを目指すべきと考えられる。

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4 ―― まとめ

GDP統計の個人消費は2021年10-12月期にコロナ前(2019年10-12月期)の水準をわずかに上回ったが、直近のピーク(2019年7-9月期)と比べれば▲3.5%も低い。個人消費はコロナ前から長期にわたり低迷が続いており、その主因は可処分所得の伸び悩みと考えられる。現在は、行動制限に伴う貯蓄率の急上昇が消費低迷の主因となっているため、貯蓄率を平常時の水準に戻すことを優先すべきである。ウイズコロナを前提とし、柔軟な医療提供体制の整備などの政策対応を進めることによって、感染拡大時でも経済活動の制限を最小限にとどめることができれば、個人消費の急回復が期待できるだろう。

コロナ禍から脱した後は、可処分所得の動向が個人消費を左右することになる。アベノミクス景気以降、労働需給や企業収益など賃上げを巡る環境は良好な状態が続いているが、実際の賃上げ率はベースアップでみるとゼロ%台の低水準にとどまっている。ベースアップが消費者物価上昇率を上回るような賃上げを実現し、可処分所得を着実に増加させることが個人消費の本格回復には不可欠と考えられる。


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斎藤太郎 (さいとう たろう)
ニッセイ基礎研究所 経済研究部 経済調査部長

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