本記事は、藤井聡氏の著書『人を動かす「正論」の伝え方』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています。
人を動かす2つの方法
さてここで、正論を唱えることの意義を明らかにするために、人を「言葉」でもって動かすには、大きく2つの方法があると考えられている、という話を紹介したいと思います。
1つは相手を「納得させる方法」です。これはまさに先ほどの「正論」によって、相手を納得させることで動かすという方法です。
もう1つが「騙す方法」です。たとえば先ほどの財務省の話で言えば、財政赤字をあたかも国民の借金のように見せかけることなどは、典型的な「騙し」の1つでしょう。政治家も評論家も、いわゆるオピニオンリーダーのように目されている人も、庶民を騙して先生面をしている人間はたくさんいます。
なぜなら、口の巧い人間にとって「騙し」はある意味とてもラクだからです。論理をすり替えたり、話を盛ったりすることで相手を騙し、その気にさせるのです。
あるいは都合のいい情報だけを出して、都合の悪い情報はあえて見せないという手もあります。これはお役所がよくやる手口で、データ改ざんなどではありませんから、後で非難されるリスクは最小化できてしまいます。
ちなみに、最初から騙そうとする確信犯もいますが、多くの場合、はじめはちょっと話を盛るくらいだったけれど、そうしているとびっくりするくらい周囲の反応が変わる。それを繰り返しているうちに、心理学でいうところの「強化の過程」によって行動が強化され、エスカレートするというパターンが多いのです。
目先の利益を考えるなら、人を騙すことが一番簡単な方法でしょう。人の財布を盗めば手っ取り早くお金を得ることができます。それと同じで、人を動かしたいという気持ちが強く、口が達者な人は、得てして人を騙す方に行ってしまいがちです。
最初は少し話を盛るくらいだったのが、それを繰り返すうちにだんだん大胆に嘘をつくようになってしまう。そして最後に嘘がバレて化けの皮がはがされてしまうと、取り返しがつかないほど信用を失うことになります。
ところが例外的に、嘘がバレても潰されない人たちがいます。それが権力者です。
私が参与を務めた安倍内閣でも、後半は安倍一強のようになっていました。そして森友・加計問題にしても、桜の会の問題にしても疑惑があれだけ出たけれど、結局安倍さん自体は潰されることはありませんでした。
財務省という巨大な組織も同じです。忖度や文書改ざんがありながら、組織としてはとくに大きなダメージを得ることはありませんでした。結局、一番立場の弱い財務局の窓口担当者であった赤木敏夫さんが自殺し、それより上の立場にはとくに責任問題などは追及されないままで終わりました。
2021年12月15日に、財務省は赤木さんの奥さんが起こしていた損害賠償訴訟に対して、その責任を認め審理が終了することで、もはやこれ以上の追及は実質的になくなったのです。
嘘つきばかりの世の中が嫌で仕方ない
残念ながら、日本という国は先進国でありながら、権力さえ持っていればどれだけ嘘を言っても追及されることがない国になってしまった観があります。
消費税増税にしても大阪都構想にしても、平気で嘘がまかり通るという状況がありました。幸い、大阪都構想に関してはなんとかそれを阻止することができました。その経緯については後ほど詳しく触れるつもりです。
いずれにしても、いまやこの国では、無理が通って道理が引っ込み、嘘がまかり通っています。とことんまで腐敗が進んでいるのです。
私がことさらに「正論」を声高に叫ぶのも、このような社会を、どうにか正していきたいという思いがあるからです。嘘つきばかりのいまの世の中が、嫌で嫌で仕方がないのです。
じつは、このような思いは、私の理性による判断というより、私自身の子どもの頃の原体験から来ているものです。
子どもの頃、私は自分の周りにいる大人たちが嘘ばかり言っていることに対して、といっても、多くの場合、それが嘘であると本人すら気がつかないほどの微妙な嘘だったのですが、そういう微妙なものも含めた大人たちのあらゆる嘘に対して、いつも嫌な思いをさせられていました。
ところが、周囲の子どもたちを見ていても、どうやらそういう嫌な思いはしていないようなのです。というより、それが嘘やごまかしだなんてことに気がついていないようでした。だから自分1人だけが、大人の微妙な嘘やごまかしに気づいてしまっているように感じていました。そんなことを続けているうちに、嘘やごまかしに対する嫌悪の念は、徐々に怒りや憎しみという感情すら惹起するようになっていったのです。
だから嘘をついている人間がしゃあしゃあとしていたり、偉そうにしていたりするのが許せないという現在の私の感覚は、子どもの頃の私の感覚そのものであり、私自身の奥深くから出てくる声でもあるわけです。
そして少なくとも自分だけは微妙なものも含めて嘘をついて他者を騙したり、動かそうとしたりはしないと思い続けてきました。
だから私が申し上げている正論とは、簡単に言えば単なる理屈や論理を越えたものだということです。それは体の奥底から響く、一種の「叫び」のようなものと言えるかもしれません。ひょっとすると、そうしたものであるからこそ、私の正論には一定の「血」と呼ぶべきものが通い、他者に訴えかけることが可能となっているのかもしれません。
「こうであってほしい」という強い思い
いずれにせよ、ここまでの話で「正論」が私にとっても皆さんにとっても必要なものである、ということをある程度ご理解いただけたのではないかと思います。
しかし、日頃「正論」というものを意識していない人には、自分にとっての正論とは何か、まだピンと来ていないかもしれません。そこで、実際に「正論」を自分の中で形にしていくにはどうすればいいのか、ということをお話ししたいと思います。
正論は、次の2つのステップを通してかたちになっていく、と言えます。
第1ステップが、「理想」を持つこと。
そして第2ステップが、その「理想」と「現実」の間にどのような乖離があるのかをしっかりと認識することです。
まず、第1ステップの「理想を持つこと」を、日常的な言葉で表現するなら、「強い思いを持つこと」と言うことができるでしょう。
「こうであってほしい」
「こうでなければならない」
という強い思いがあるかどうか?
逆にその強い気持ちがなければ、「正論」とはなり得ません。たとえどんなに理屈が通っていても、「思い」がないものは「正論」にはなり得ません。
「思い」とは言葉を変えたら、先に申し上げた「理想」とも言い得るものですし、あるいは「ビジョン」、「目標」と言ってもいいでしょう。
自分の中にそのようなものがあって、現実とのギャップを認識することが、「正論」の原点になっているのです。
そのギャップに対して、「なぜこうなんだ!」という憤りや怒りが、次の行動につながります。それをどうやって埋めていくか、ギャップの原因がどこにあるのか、その矛盾を改善するにはどうしたらいいか。そこから「正論」が形作られていくわけです。
道理から外れたものは正論ではない
その際、冷静で客観的な「眼」が必要になります。現実とのギャップに憤りを覚えながらも、冷静に世の中を見渡す眼が、正論には不可欠です。
ただし、自分の理想がでたらめであれば、正論とは言えません。
ヒトラーがゲルマン民族のあらゆる側面における優位性を説き、だからこそあらゆる民族を隷属させ、場合によっては殲滅することの実現を理想としたとしても、それ自体が何の根拠もない暴論であり、正論とはほど遠いものです。
たとえば食事ひとつ取っても、ドイツ料理より美味い料理は山のようにあります。ゲルマン民族だけが優越しているということを前提とする理想論は、現実からかけ離れたでたらめな代物なわけです。
さらに言うと、仮に理想や目標が道理にかなっているものであったとしても、現実の社会に対する見方や評価が偏っていたら、やはりそれも正論とは言えません。現実に対する認識と評価が歪んでいては、一般的な理解と共感を得られるものではなくなるからです。
たとえば「平和で豊かな日本を実現したい」と考えている人が、「だから武力を即時全廃すべきだ」と主張したとしても、それは正論にはなり得ません。なぜなら、即時の武力全廃は、戦争を遠ざけるよりもむしろ誘発し、平和を脅かす愚挙となり得るからです。
あるいはよく見られる「道理から外れた正論あらざる正論」は、突拍子もない陰謀論などに影響された過激な意見です。たとえば新型コロナウイルスは中国と米国のウイルス戦争であるとか、3.11の東日本大震災がある世界的な組織による地震兵器によるものだというようなことになると、もはやそこから導かれる結論がどのようなものであれ、それを正論として認めることは難しいでしょう(もちろん、反論が困難な明確な証拠があれば、別ではありますが)。
いずれにしても、正論とはきちんと説明しさえすれば、誰でも庶民感覚で十分に納得しうるものなのです。
英語圏の人々が「that makes sense」(よくわかるよ、道理にかなってるね)という表現をよく使いますが、まさにその感覚で了解可能なものこそが正論なのです。