本記事は、藤井聡氏の著書『人を動かす「正論」の伝え方』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています。

人を動かす最強の力とは?

万年筆
(画像=keatn K/stock.adobe.com)

そもそも、人を動かすためには何が必要か?

それは通常、「お金」「力(権力)」「言葉」の3つだと言われます。

これらのうち、1つ目と2つ目のお金と力は強者が独占しています

それに対して言葉とは言論や思想であり、もっと言うならば真理や真実、つまりは私の言うところの「正論」にあたります。が、これに関しては強者も弱者も関係なく、基本的には誰もが自由に使うことができます。

それゆえに、弱者が強者に対抗するには「正論」こそ、唯一無二の武器ということになるのです。

たしかに「力」や「お金」というのは、とても強いものです。力というのは権力であり、突き詰めて言うならば「暴力」です。国家においては警察力であり、軍事力がそれにあたります。

「国家とは暴力装置だ」と言ったのは、ドイツの社会学者のマックス・ウェバー(1864―1920)ですが、現代において最も大きな暴力を保持し、駆使しているのは国家に他なりません。暴力を公然と公使できるのが、国家権力だということです。

「お金」に関しては言わずもがなでしょう。とくに現代社会において、お金は生きる上で必要不可欠なものです。それは私たちの生命や安全を保障し、欲望を満足させるための最大最強の手段となります。

「ピストル(力)」「札束(金)」という言葉で表現すると、両者の特徴がより鮮明になると思います。この二つを突きつけられた時、どんな人でもいや応なく動かされてしまいます。

では、「言葉」はどうでしょうか?

先ほどの2つに比べると、力不足のように感じるかもしれません。しかし、よくよく考えると、言葉こそ最も強い力を有しているのです。そしてそのことは、歴史が明らかに示しています。

「ペンは剣よりも強し」(The pen is mightier than the sword)という有名な言葉があります。ペンとは言論のことですが、私の言うところの「正論」と同じと考えてよいでしょう。

16世紀の宗教改革は、ドイツのマルティン・ルター(1483―1546)が、贖宥状に対する批判文を、当時生み出されたばかりの活版印刷によって広げたことで始まりました。

18世紀の市民革命も、その発端は当時ブルジョアジーの間で誕生した「議会」などにおける活発な言論活動です。

私たち人間は知性を持ち、言葉を使い、コミュニケーションを取ることで意思を通じ合い、行動を起こします。

力もお金も、それが生まれる大元には言葉がある。言葉によって正当化され共有された価値の下で、力が生まれお金が動く。そう考えると、言葉こそが最も本源的で、最も大きなパワーを持っていると言えるのです。

正しいことや美しいことは共感を生む

「力」や「お金」は、必ずしも正しいものとは限りません。そこには、人間の欲望が貼りついています。むしろ、それ自身では欲望の方に流れていくものだと考えてよいでしょう。キリスト教では、お金は信仰を妨げる存在=悪とされていました

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(テモテへの手紙 第一 6-10)

「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだやさしい。」(マタイの福音書 19-24)

言葉もまた、その使い手の意図によっては、特定の個人や集団の利害や欲望のための、薄汚い道具に堕ちてしまうこともあります。

ただし、言葉の中でも「正論」こそは、力やお金を正しく用いることを可能にします。同時に「正論」は真理であり、真実であるという点において、(西洋で言うなら、いわゆる)「神」に通じる絶対的なものです。

こう言うと、なんだかとてもたいそうなものに思えます。

ですが、ヨーロッパ人の「神に対する信仰」と同じような精神的態度を、我々日本人も現代において持っています。それは、「科学に対する信仰」です。

そもそも近代以降、神の威光が色あせた時に代わって出てきたのは科学でした。そこでは論理的で理性的な思考が重んじられます。理論=言葉であり、まさに神に代わる絶対的な真理がそこにあるとされたわけです。つまり、現代の科学振興も前近代のキリスト教信仰と同じ構造にあるわけです。

その意味において、正論は宗教的なものだと言えるばかりでなく、「科学的」なものだとも言えるわけです。

そもそも言葉は、昔から力を持っていました。

ギリシャ時代の哲学者であるソクラテスは、英知(ソフィア)を愛することをフィロソフィアと呼び、それがフィロソフィー(哲学)の語源となりました。

英知とは真理であり、真実と呼んで構わないでしょう。そしてそれは言葉によって語られ、広がっていくものです。

弟子のプラトンは同じことを「イデア」という言葉で表現しています。

イデアとは、私たち全員が持っている心の中の真理の姿や真実の形です。プラトンによれば、かつて我々人間が天上界に住んでいた時は、イデアという真理だけに囲まれて暮らしていました。

ところが人間は自身の汚れた心=悪によって天上界を追放され、地上の世界に堕とされた。その際、忘却の河(レテ)を渡ったため、イデアの多くを忘れてしまった。

ただ、私たち人間は現世界でも、かすかにイデアの面影が心に残っています。それを「想起(アナムネーシス)」し、世の中を見ることで、混沌とした世界の中に真理と真実を見いだすことができる。

プラトンのイデアこそ、私の言うところの「正論」につながっていると考えていただいて差し支えありません。

実際、こんなに混乱して腐敗した世の中であっても、真理や真実、正しいことや美しさ(真・善・美)は、多くの人の心に共鳴し、共感を生み出します

そしてそれが個々の人びとを感化し、一つひとつの行動となり、大きな流れ=ムーブメントとなる。

それはまさに、プラトンのイデアのようなものが各人に残されていて、それが「正論」によって想起され、強い共感を得ることができるからだと言うことができるでしょう。

このように考えると、「正論」は人々を動かす大変な力を持っていると納得してもらえるのではないでしょうか。それが真の「正論」である限り、イデアであり真理であり、神ないしは真理に通じるものだと言っても過言ではない。そこに人が感化され、賛同し、集まる。必然的に、そこに力もお金もついてくるのです。

ちなみに、プラトン的に言うならば、天上界はかつて人間がいた場所です。「ふるさと」について話をしましたが、私たちはかつてふるさと=天上界で認識していたはずのイデア(正論)に対して、ある種の「懐かしさ」を感じていると言えるわけです。

だからこそ誰もが真理=正論に強く魅かれる ── これがプラトンやソクラテスの考え方ですが、それは私にとってはとても自然な当たり前の考え方のように思います。

専門家の言葉には「真理」がない

アイデア
(画像=PIXTA)

正論が真理であり、イデア的で良心的なものだとしたら、それは非常に明快であり、スッと私たちの中に入ってくるはずです。

アイザック・ニュートン(1642―1727)も、「Truth is ever to be found in simplicity(真理はつねに単純さのうちに見出される)」と言っています。

真理は決して複雑なものではありません。だから、やたら専門用語を駆使したりして、何度聞いてもよくわからない専門家の言説は、決して「正しい論=正論」とは言い得ぬ代物だと思って間違いないでしょう。

そういうよくわからない正論あらざる言説は、「邪論」と言って差し支えないものです。こうした「邪論」には、代表的には次の3つのパターンがあるように思います。

1つは、自分の無知をごまかそうとしているパターンです。知らないことを認めることが嫌なので、わざと難しい単語を並べ、理屈をこねまわしてごまかそうとする、という言説です。このパターンの邪論には、全く中身がありません。そこにあるのはでたらめな言葉だけ、ということになります。

2つ目の邪論パターンは、聞いている人を煙に巻いて騙そうとするパターンです。お役所の文章や役人の言葉、それから政治家もこのような言質を弄する人が多い。

相手に攻撃されたり、痛い腹を探られないようにするため、意図的に難しく表現して突っ込ませないようにするのです。

このパターンの邪論には、一応中身はあります。それが、1つ目のパターンとは異なるところですが、問題はその中身自体が「嘘」なのです。だから話し始めるとその嘘がバレるので、意図的にきちんと話をせずに、詭弁を弄することになります。

これら2つのパターンは、真実や真理になど何の関心も持たず、それぞれの目的のために口から出てくる単なるでまかせ論ですが、もう1つは理系の研究者や技術者に多いのですが、一般の人にもわかりやすく説明する気持ちがなく、嚙み砕いて話をする語彙力や表現力が乏しい人のケースです。いわゆる「専門バカ」と呼ばれる人たちの言説に多いのがこのパターンです。

この言説は、一応は同じ専門家ならば事実を語っている者ということになるのですが、一般の人にとってみれば全く知らない単語がちりばめられている以上、何の意味もない言葉の羅列になっています。そんな意味のない言葉の羅列は正論にはなり得ないのであり、単なる邪論にしか過ぎないのです。

結局、そういう言説は、「この人はこの問題について詳しい人なんだな」という印象を与えること以上の意味がないわけで、先に述べたように、聞いている人を煙にまいてごまかそうとする言説と何ら変わらないわけです。

いずれにせよ、この3つは、私の言うところの「正論」とはほど遠いもので、難しい言葉を羅列して、複雑怪奇な理論構成をしているけれど、その言説は何ら正しいものとは言い得ぬ「邪論」に過ぎぬものなのです。

結局、そんな邪論は嘘と欺瞞、自己保身や自己満足に塗れたものであって、難解で複雑、一見高尚に聞こえるけれど、私たちの頭と心にスッと入ってきません

正論を理解するためには、一見正しく聞こえる人々の言説には「正論」のみならず、まやかしの「邪論」があるのだと認識し、両者をまずは明確に線引きすることが重要だと思います。この2つの間の線引きに意識的になることで、自分が語っている論が果たして正論なのか、他者の語っていることがどちらなのかを、より批判的、客観的に判断することができるようになります。

そしてもちろん私自身は、正論を語る人間でありたいし、同時に他者の邪論に騙されたり惑わされたりしないようにしたいと日々考え続けています。ものそうと思い立ったのは、そんなことを普段からずっと続けているからであり、そんな中で考えたことをできる限りわかりやすく記述し、1人でも多くの方にそのアイデアなり、やっていき方なりを共有して、僭越ながら皆さんの「正論」の展開にお役に立てないだろうかと思い至ったからです。

=人を動かす「正論」の伝え方
藤井聡
1968年、奈良県生まれ。京都大学大学院工学研究科教授。京都大学工学部卒業、同大学院修了後、同大学助教授、イエテボリ大学心理学科客員研究員、東京工業大学大学院教授などを経て、2009年より現職。2012年から18年まで、安倍内閣において内閣官房参与。2018年よりカールスタッド大学客員教授、並びに『表現者クライテリオン』編集長。著書に、『こうすれば絶対よくなる! 日本経済』(田原総一朗氏との共著・アスコム)、『ゼロコロナという病』(木村盛世氏との共著・産経新聞出版)、『なぜ、日本人の9割は金持ちになれないのか』(ポプラ社)など多数。

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