本記事は、藤井聡氏の著書『人を動かす「正論」の伝え方』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています。
なぜか意見が通ってしまう人の秘密
「正論」とはどういうものか? 私自身が感じ続けてきた感触から、オーソドックスな哲学や宗教で論じられてきた議論までを交えながら、その本質的な部分をお話ししました。
ただし、これが正論だと声高に主張したところで、すぐにそれが受け入れられ、認められるとは限りません。むしろ正論であるほど、反発や抵抗を受けやすい。
真の正論=正正論は広く対話やセッションの中で成立するものです。ただし、そこにはそれなりの手順があり、相手に応じて向き合い方を変えていく必要がある。でないと、通るものも通らないことになります。
私はこれまで、大学教授として研究室や学界で自分の意見を言ってきました。そして安倍内閣の官房参与として、デフレ脱却のための積極財政を説いてきました。あるいは橋下徹氏が提唱する大阪都構想に反対の論陣を張りました。
成功したものもあれば、失敗した体験もあります。
それらを踏まえて、私なりに考え、体験し、反省して身につけた「正論の通し方」というものを持っています。
私のそういうやり方は、人によっては特殊なものに過ぎないとお感じになるかもしれません。しかし、その本質はどんな会社であれどんな組織であれ一緒だと思います。
ちなみに、あなたのまわりにも1人や2人おられるのではないでしょうか? なぜか何を言ってもあまり反発されることなく、認められている人。多くの人に一目置かれ、その意見が最終的には通ってしまう人が……。
正論を通すには手順とやり方、戦略があるのです。
私自身の実体験をもとに、正論の通し方をお話ししていきたいと思います。
相手を「動かす」ことが正論の目的
私が正論を唱えるのは、単に自分の意見を公にしたいということではありません。それによって周囲の人に何かしらの影響を与え、動かしたいという気持ちがあります。
このように話すと、なんだか策士的で、扇動者のようなイメージを持つかもしれませんが、そうではありません。そもそもあらゆるコミュニケーションというものは、相手のことを理解しながら、自分のことを相手に理解してもらうものです。
だから理解し、理解してもらうということを繰り返すことで、それがごく日常の雑談であったとしても、相手が(そして自分も!)何らかのかたちで反応してしまい、喜んだり面白がったりすることとなるわけです。
このこと自体が、すでに相手に影響を与えていることになります。影響を与えるとはつまり、そのコミュニケーションがあった場合となかった場合とを比較すれば、相手の考え方なり振る舞いなりが違ってくる、ということです。
ただしそれが起こるのは、相手だけではありません。自分自身にもそういう「影響」が及んでくることになるのです。つまりそれは、まさに「解釈学的循環」なのですが、そもそもコミュニケーションというものは本来的に、そうやってお互いが変わっていくものなのです。
そして、そうしたちょっとした「影響」の延長に、相手の気持ちを根底から揺すぶり、感動させたり考え方を変えさせたりすることも出てくるわけです。
考えてみれば、世の中の仕事のほとんどが、このような作用を前提にして成り立っています。
営業マンが自社の商品を新規の顧客に買ってもらう場合、営業トークで相手をその気にさせなければなりません。プレゼンでクライアントに説明する時は、いかに提示する案が有効かをアピールしなければならない。
店頭で商品を売る際も、立ち寄ったお客さんが思わず買ってしまいたくなるような言葉をかけることがポイントになります。
ビジネスは相手の心を動かし、動いてもらってはじめて成立するのです。
さらに仕事だけでなく、日常の様々な人間関係も同じです。コミュニケーションによっていかに相手を動かすかにかかっているのです。
ただし、こうしたコミュニケーションにおける重要なポイントは、相手も自分も相対的に同じ立場にある、という点です。コチラがテコでも動かないと、頭から決めてかかっていたら何も変わりません。コミュニケーションとはつねに相互作用があるものですから、相手に変わってもらいたいなら、こちらも何らかの変化が起こることを最初から想定しておく(あるいは覚悟しておく)ことが必要なのです。それは、どんなハードなビジネスでも同じことです。
たとえば、厳しい外交や商談では、許される範囲で何らかの譲歩をすることが想定されていない場合は、高い可能性で決裂することになるでしょう。
ましてや友人関係や仲間や同僚の関係ならば、なおさらです。何らかの影響を与えようとするなら、こちらも相手から影響されることを想定し、覚悟しておくことが大切なポイントなのです。
部下、同僚、上司……立場ごとに違う「巻き込み方」
さて、私の職場の話を例にとって、このことをさらに説明して参りましょう。
私は大学で学生にものごとを教え、研究を指導するのが、一番メインとしている仕事です。
まず最初に私は、学生の研究テーマを決める時には必ず、私がどういう思いで一つひとつの研究をしているのかを入念に解説、説明します。一方で学生がどういう興味や問題意識を持っているのかを聞きます。
学生が仮に、私の思いの正反対の研究をしたいと言い出したなら、(たとえば人を上手に欺す方法を研究したい、とか言い出したなら)別ですが、そうでない限り、学生の興味関心に沿った研究テーマをいくつか提案しつつ、学生の意向も踏まえながらテーマを絞り込んでいきます。
その中で、私がいままで関心を全く持っていなかったものでも、学生との相談の中で、「確かにそれは面白い」と思えば何の抵抗もなくそのテーマにします。
学生は、私のような職業的な研究を30年以上も続けてきた人間からしてみれば、研究者としては取るに足らない存在ですが、それでも一人の人間で、それなりに何かを考えています。だからそこで、学生に対する最低限の敬意をもって接すれば、こちらが「変わる」ことだってある、という次第です。
ただし、どういうテーマにしようとも、私が徹底的にこだわるのは、そのテーマがいかに重要で、価値があることかという1点です。
自分たちが研究していることに意義や価値があり、重要であるということがわかれば、彼らのモチベーションは一気に上がります。
同時に、問題意識を共有することによって、学生と教授が、同じ方向を向いて研究できるようにもなる。さらには、研究室の学生は全て私が指導しているわけですから、皆が私の問題意識というものを通して、一体的に繋がっていくことができ、研究室全体の一体性が生まれ、社会学的な凝集性が高まることになるわけです。
一方、自分と同じ立場の同僚などに対しても、学生とのつき合いと基本は変わりません。大切なのは、こうなりたい、こうでなければならないという、理想やビジョンを共有することです。
だから、仕事の現場だけでなく、できれば飲みに行ってざっくばらんに話をする中で、そんな話をしてみるのが極めて効果的です(もちろん、学生との食事や宴会も大切な指導機会です)。
ただしその時大切なのは、自分がどうしたいとかどうなりたいという個人的な話よりはむしろ、一緒に仕事をしている同僚として、職場の環境をどうしたいとか、より良くするためにどうすればいいかというパブリック(公共的)な話を、気軽に展開していく、という点です。もちろんプライベートな会話もしていきます。
その時にとくに重要なのは、そのプライベートな会話がそれなりにパブリックな「意味」を持つことが必要だということ。これがなければ、相手のこちらの話に対する関心が薄れ、理想やビジョンの共有も不能となり、結果的に影響し影響されるというあの循環ができなくなってしまうからです。
ただし、一番難しいのはもちろん、自分よりも上の立場の人間、とりわけ組織の中で言うなら「上司」です。
「正論」を通そうとする時、学生や部下、同僚にどう動いてもらうかももちろん大切ですが、上司をどう動かすか、という点はとりわけ重要となります。「正論」通りに上司が動いてくれれば、自分はもはやそれに従っていればそれだけで、もともと通したかった「正論」が自動的に進んでいくのですから。
結論から言うと、上司をどう動かすかを考える上で何よりも大切なのは、その正論を上司が「自分が決めたこと」「自分がやっていること」だと思わせるということです。
たとえば私の場合、若い助手時代には、上司の教授の先生がおられましたが、上司の命令や指導を100%聞くフリをしながら、最終的には何を研究テーマにして、どんな予算を組んで、どんな体制と人員配置を組んでやるかなどのほとんどの側面を事実上、助手である若い自分が決めていました。
その時のコツは、あえてまだ決めていないという体で相談する、というものです。「予算はどうしますかね?」「スタッフはどうしましょうか?」と意見を伺うのです。自分は「こうしたいと思うのですが」なんていう態度を取ると、上の人間を差し置いて勝手にやっている感が出てしまうからです。
その上で、「そういえばこの前の研究では予算がこれくらいでしたが、今回はスタッフが倍くらい必要ですかね」などと促し、上の人間が「うーん、となると、予算も前回より必要になるかな」などと言えばしめたもの、「確かにそうですね。おっしゃる通り、最低でも前回以上の額が必要になるかもしれませんね」と返す。
言葉巧みに、いかにも上司が主導権を握っているかのように思わせながら、ちゃっかり自分の描いた計画の方に誘導するのです。
ただもちろん、こちらの目論見が外れることもあります。そういう場合には、あっさり言うことを聞く態度を見せることも必要です。そうでないと、「自分が決めたことだ」という「勘違い」が続かなくなってしまうからです。