本記事は、藤井聡氏の著書『人を動かす「正論」の伝え方』(クロスメディア・パブリッシング)の中から一部を抜粋・編集しています。

「正正論」と「邪正論」の違いとは?

注意,ビジネスマン
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専門家の中では筋が通っている話で、正論であっても、そのまま広く社会の中においては正論として通らないケースがあります。

私が定義するところの正論とは、簡明で簡潔であり、誰の頭と心にもスッと腑に落ちるものでなければなりません。

専門家同士の間だけでの正論は、その意味では正論の要件を満たしていないということになります。学会という場では正論として認められても、社会全体としては理解し共感を得ることが難しい。

このような括弧つきの正論、一部分においては正論として機能するものの、世間一般では正論と機能せず、単なる邪論に過ぎないものとなってしまうという正論を、真の正論である「正正論」と区別するため、「邪正論」と名付けたいと思います。

学者のような象牙の塔にこもっている人間は、とくに「邪正論」を振りかざしがちです。自分は学問的には正しいことを言っているつもりでも、それが一般には受け入れられない。そういう人物は、自分が浮いていることに気がつかないか、あるいは気づいたとしても一般大衆が無知でバカなのだと、笑っておしまいです。

しかし私から言わせれば、わかりやすく伝えられない彼らの方こそ無知であり、愚かなのです。

仏教用語で「方便」という言葉があります。これは、ブッダが説法する際に編み出した言葉であり方法論です。

真理をそのまま語っても、一般の人たちにはなかなか通じない。そこで相手の理解力や教養、性格や立場に合わせて、わかりやすく噛み砕いて教えた。このように真理を相手に応じてわかりやすくしたものを「方便」と呼びます

そして、この「方便」を用いて相手に説法することを「対機説法(話法)」と言います。ブッダは仏法の本質を少しでも多くの人に伝えるべく、方便を用いて対機説法を行ったのです。

ちなみに、対機話法はソクラテスも得意としていました。ソクラテスには著書がありませんでしたが、曰く、自分の哲学的真理を文字で書くとどうしても硬くなる、と。そして、真の英知は対話の中で、自ずと明らかになるものだという考えがありました。

ブッダもソクラテスも、真理は決して固定化されたものではない、という考え方がありました。それは、状況によって表現型を変えるけれど、底に流れているものは変わらない。その流動性と柔軟性があるからこそ、真理がチンプンカンプンな言葉によってうやむやにされることもなく、そしてドグマや教条主義のように固定化されることなく、生きた知恵となって人々に伝わる、と考えていたように思います。

まさにいまの専門家たちが、邪正論に落ち込んでしまうのとは正反対だということです。

「方便」でわかりやすく伝える

ところで、方便として仏教でよく用いられたのが、比喩やたとえ話です。仏法は深遠であるため、悟りに興味のない者にそのまま伝えても理解できず、無視されたり誤解されたりしてしまいます。そこで、ブッダは比喩を多用して教えを説いたのです。

たとえば「法華七喩」はその典型でしょう。法華経の中で説かれている7つのたとえ話で、釈迦の教えがどのようなものであるかを比喩として語ったものです。その1つ目が「三車火宅」の比喩です。

ある時、長者の家が火事になった。中にいた子どもたちは遊びに夢中で、火事だと言っても逃げようとしない。そこで長者は、子どもたちが欲しがっていた「羊の車」と「鹿の車」と「牛の車」が外にあるぞ、と嘘を言った。すると子どもたちは、遊びを止めて車を見ようと外に出た。

この話で、火がついた家(火宅)は迷いと苦しみの多いこの世界を表します。子どもたちはその世界で生きながらも、何とか救われたいと修行を積む人たちのことを表しています。そして3つの車は、それぞれ仏の教えを伝える方便を指しています。

家が火事であることは、煩悩と苦しみが渦巻くこの世界を表しています。そこにいたら劫火に焼かれてしまう。その危険を認識できていない子どもたちに向かって、そこから逃げろと言っても、なかなかその気にならない。

しかし、彼らが求めているもの、好きなもの、すなわち「方便による仏の教え」が近くにあると示すことで、子どもたちの注意をそちらに向け、この苦しみの世界から逃れさせることができた──。

仏教の真理をそのまま伝えても理解できませんが、少し言葉を変えることで正しい方に導くことができる。この話は、まさに仏の真理を衆生に伝える方便の大切さ、有用性を、これまた方便の1つである比喩を用いて表現しているのです。

「正論」が煙たがられるのは「邪正論」だから

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少し話がそれてしまったかもしれませんが、要はいまの時代の専門家や研究者の多くが、「方便」の大切さを忘れてしまっているということが問題なのです。そして、それ自体の理屈は通っていても、全体の文脈の中では正論とはならない「邪正論」に堕ちてしまっていることが問題だと考えます。

結局、邪正論は自己満足だけで、相手に真理を伝え、相手を動かすという本来の正論=正正論にはなっていません。一般的に「彼は正論しか言わないな」と言われるときの正論は、邪正論であることが多いと思います

私自身は、邪正論ではなく、あくまでも正正論で語ろうと心がけています。もちろんそれは、つねに相手の目線を内側に持っていなければできないものなので、それが実際にできているかどうかは大変に難しいことなのですが、少なくとも可能な限り邪正論を避け、正正論を語るようにしなければならないと考えています。

ですから、時には相手に合わせて少々複雑な概念を用いながら学問的なことを言うこともありますが、状況に応じて少々不正確でも、大きな方向としては一切間違ってはいない、誰にでもわかり得る話を話すように心がけています。

たとえば映画や落語の話だとか、お笑いや芸能界のネタも使いながら、その時々に伝えようと考えている内容をお話しすることもしばしばです。私自身は音楽が好きで、演奏もやっていますが、そんな話をしたりすることもありますし、もちろん時には下世話な話をすることを厭いません。

仕事で論文を書く時と、単行本を書く時、雑誌のインタビューや対談の時や、ラジオやYouTubeで語る時、それぞれに応じて使う言葉も違えば、表現の仕方も全く変えています。

これは、意図的に論文の時はこういうふうに話をして、テレビの時はこう話そう、と定型的に決めているというよりはむしろ、その時々の聞き手・文脈をイメージしつつ、その時々ごとに話し方を考えていることの必然的帰結として、テレビ的な話し方や論文的な論述の仕方がそれぞれにそれぞれのようになる、というものと言えると思います。

ただし、そんなことをしていると、「あいつは不真面目だ」とか、「いい加減なヤツだ」と非難する人が必ず出てきます。そして学者のクセに、目立ちたいだけの軽いヤツだ、などと陰で言われることもしばしばです。

しかしそれは表現型を変えながら、何とかして自分の考えを伝えたい、わかってほしいと意図的に行っていることです。つまり文脈に応じて表現型を変えて、真理を伝え、多くの人に理解してほしいと考えているわけです。

しかし私から言わせれば、素人の方に対しても、学会での話し方を変えずにそのまま使い続けるような専門家(学者)連中こそ、「邪正論」を振り回す不真面目で不誠実であると言わざるをえないと思います。

彼らは相手のことを考えて話すのではなく、自分の世界で自分のことだけを考えて話している単なるエゴイストであり、時に単なるナルシストに過ぎぬ者である。そんな風にさえ、私は感じています。

「正正論」を語る上で必要な教養

「正正論」を語る上で大事になってくるのが、教養です。真の教養がなければ、相手を見て、相手に応じて話の仕方をうまく変えることなどできません。その意味で、お釈迦さまもソクラテスも、人類最高の教養人であるわけです。

教養人というと、多くの人はクイズ番組で正解を連発するような知識と情報の持ち主のように感じているのではないでしょうか?

私から言わせると、真の教養人とはそのような博覧強記の人ではありません。そうではなくて、教養とは様々な体験の蓄積なのです。

たとえばたくさんの場所に行き、多くの人と会う中で、どれだけ友人ができ、一緒の体験とエピソードがあるか。友だち関係だけでなく、師弟関係や恋愛も含めて、どんな出会いと別れがあったか。その中で楽しいことはもちろん、悲しみや辛さをどれだけ味わい、乗り越えて来たか。

リアルな体験はもちろんですが、疑似体験も大きな要素です。文学や芸術、文芸などの世界にどれだけ触れているかでも、経験値が大きく変わってきます。

文学に触れることで人の生き方や考え方を、ストーリーを通じて疑似体験することができます。その中で神や道徳、倫理や人の生き方など、哲学的で本質的な問題に向き合うことができます。また、絵画や音楽をたしなむことで、美についての自分自身の感性を磨くことができます。

リアルな体験と疑似体験の2つを通して、いわゆる真・善・美についての自分なりの考え方や価値観ができ上がってくるのです。それが実生活における様々な判断の基準になる。

真の教養があることによって、相手の性別、年齢、職業や出自などで、興味を持ちそうな領域を探り、それを刺激する話を投げかけることができます。

さらに、その時の相手の反応を敏感に捉えて、軌道修正することもできます。あまり興味を示さず、乗ってこなければその話は切り上げ、別の話題を振ってみる。乗って来たら、さらにその話題を深めて会話を盛り上げる。

これがまさに(仏教で言うところの)方便ということですが、教養がなければこのような柔軟な対応というのは難しいでしょう。つまりは、正正論を説くこともできないのです。

お題「1万円」で何を話す?

たとえばここに1万円があったとします。1万円札の製造コストは22円から24円と言われています。

本来は24円の価値のものが、1万円という価値として世の中に流通しているわけですから、じつに奇妙なことだと言うこともできると思います。

このことを「使用価値」と「交換価値」という経済学的な視点で解説をすることもできるでしょう。あるいは、本来価値のないものを価値あるものとして流通させる力が国家であるということで、政治論や国家論からお金を解説することもできます。

また、お金とは一種のフェイク=擬制であるがゆえに、むしろ多くの人の幻想をかき立てるものだというような、社会心理学的な視点で解説することもできます。

そこからお金がお金を生み出すという利子論につなげることもできるし、世界中の国家や共同体で貨幣がどのように生まれ、使用されてきたかという民俗学的な視点や文化人類学的な視点で語ることもできます。

さらには、1万円のデザインや印刷に、どのような工夫や意味が込められているか、技術論や美術・工芸論に話を進めることも可能でしょう。

教養があることによって、1つのテーマを様々な角度で解釈し、論じることができるのです。もちろん、右の1万円の様々な話の中には、俄にわからないややこしい話もあったと思いますが、それはここでは構いません。

ここでお伝えしたいのは、たかだか1万円というものについても、じつに様々な側面があり、その側面について考えた経験があるという教養さえあれば、目の前にいる人が何に興味や関心を持ち、そしてどういう知識を持っているかを考えながら、以上に述べたような引き出しの中から最も相応しいものを1つ取り出し、それをその人に向けて話してみる、ということが可能となるのです。

一方でもしもそういう教養がなく、1万円といえば特定の1つの話しか思いつかない人には、そういう柔軟な対応が不可能となり、相手が理解しようがしまいが同じ話しかできない、という邪正論を振りかざす以外に何もできなくなってしまうわけです。

いずれにしても、様々な側面に思いを馳せつつ、話をどんどん敷衍できる力も、「方便力」につながるのです。

正正論を説くにあたって、このように教養というものが非常に大きな要素を秘めています。逆に言えば、邪正論ばかり唱える人は、教養に乏しい人だということができると思います。

=人を動かす「正論」の伝え方
藤井聡
1968年、奈良県生まれ。京都大学大学院工学研究科教授。京都大学工学部卒業、同大学院修了後、同大学助教授、イエテボリ大学心理学科客員研究員、東京工業大学大学院教授などを経て、2009年より現職。2012年から18年まで、安倍内閣において内閣官房参与。2018年よりカールスタッド大学客員教授、並びに『表現者クライテリオン』編集長。著書に、『こうすれば絶対よくなる! 日本経済』(田原総一朗氏との共著・アスコム)、『ゼロコロナという病』(木村盛世氏との共著・産経新聞出版)、『なぜ、日本人の9割は金持ちになれないのか』(ポプラ社)など多数。

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