本記事は、山田順氏の著書『日本経済の壁』(エムディエヌコーポレーション)の中から一部を抜粋・編集しています。
日本の賃金が上がらなかった本当の理由
金融緩和によって経済が活性化するなど、ほぼありえない。そんなことより、経済成長をはばみ、賃金の上昇を妨げている制度を改革すべきだった。たとえば、正規雇用者の労働流動性を高め、年功序列、終身雇用システムを止めていれば、日本人の平均賃金はもっと上がっただろう。
しかし、これまで日本がやってきたのは、非正規雇用を増やして、彼らに正規雇用の仕事をさせるという〝逆行政策”だった。
日本人の平均賃金が上がらなかったのは、経済成長ができなかったからだが、そうなってしまった構造的な原因は、賃金が安く済む非正規雇用者を増やしたことにある。いまでは、非正規雇用者は、約2,101万人で日本の全雇用労働者の約4割を占めるまでになった。
非正規といっても、「同一賃金同一労働」が実現していれば、問題は大きくならなかっただろう。しかし、日本は〝身分社会”のため、両者の格差は歴然とついてしまった。
厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」(2021年)によると、正社員・正職員の平均給与は323万4,000円(年齢42.2歳、勤続年数12.5年)、非正規雇用者は216万7,000円(年齢48.8歳、勤続年数8.7年)となっていて、年収に100万円以上もの差がある。
しかも、非正規雇用者は、今後さらに増え続ける傾向にある。いまや多くの企業で定年はなくなり、人々はかつての定年年齢を過ぎても働き続けている。これは年金だけでは生活が成り立たないからだが、こうした高齢者の雇用のほとんどが非正規であり、その賃金は現役時代の半分がいいところである。
このような非正規の高齢労働者が労働市場に存在するかぎり、平均賃金が上がるわけがない。
スタグフレーションは、非正規労働者の暮らしを窮地に追い込む。2022年秋から、一部の企業は一時的なインフレ手当を社員に支給するようになった。しかし、これは余裕のある大企業だけの話であり、当然ながら非正規社員には支給されない。
毎年繰り返される「官製春闘」という〝愚行”
驚くべきことに、首相による賃上げの「お願い」が毎年繰り返されてきた。日本独特の労使交渉「春闘」の時期になると、日本の首相は労働組合に代わって、経営側に賃上げを要求するのだ。この「官製春闘」は、2013年に当時の安倍
2023年正月、岸田文雄首相は伊勢神宮参拝後の年頭記者会見で、「今年の春闘はインフレ率を超える賃上げの実現をお願いしたい」と述べ、賃上げを実施した企業の法人税を優遇する措置を打ち出した。
前記したように、これはとんでもない〝愚行”である。
岸田首相は、就任時に「新しい資本主義」を打ち出したが、その新しい資本主義について、こう説明した。
「成長と分配の好循環による持続可能な経済を実現するのが、その要です」
「その第一は、所得の向上につながる賃上げです。春には、春闘があります。近年、賃上げ率の低下傾向が続いていますが、このトレンドを一気に反転させ、新しい資本主義の時代にふさわしい賃上げが実現することを期待します」
この発言で、首相が資本主義をまったく理解していないことがわかる。なぜなら、賃金は市場によって決まるもので、それが資本主義市場経済だからだ。
2023年の春闘は、インフレが亢進したため、大手企業は例年以上の賃上げに踏み切った。
たとえば、「ユニクロ」を運営するファーストリテイリングは、3月から正社員約8,400人の賃金を最大で40%引き上げた。任天堂は、4月から正社員のほか嘱託社員やアルバイトも含めて全社員の基本給を10%引き上げた。そのほか、野村証券、三井住友銀行などの金融機関も異例の賃上げに踏み切った。しかし、これは、首相が要請したからではない。たとえばユニクロの広報担当者は、
「報酬改定は成長戦略の一環として準備してきた。よって政府の賃上げ要請などとは無関係」
「世界水準の仕事をお願いするなら、母国市場である日本の報酬も世界水準にしなければならない」
首相が要請すれば賃金が上がるなら、企業はみな国営企業になってしまい、市場経済は成り立たなくなってしまう。
賃金はどうやって決まるのか?
世界でも日本だけにしかない「春闘」があるせいか、日本人は、給料は労使交渉によって決まるものだと考えている。しかし、その考えは間違っている。労働者と経営者との交渉が賃金決定に影響を及ぼすのはたしかだが、それ以前に、企業が利益を上げていないかぎり、賃金は上がりようがない。
企業は、売上から売上原価を差し引いた「
つまり、付加価値が多ければ賃金の総額を多くできるが、少なければ少なくせざるをえない。粗利益がマイナスになっている場合は、モノやサービスを売れば売るほど赤字(損失)が膨らむ状況なので、賃金を上げようがない。
また、市場全体の動向も賃金を決める重要な要素の一つだ。賃金も物価と同じで、需要と供給によって決まる。つまり、労働力が豊富に存在する市場では賃金は低くなり、その逆で、労働力が不足している市場では賃金は高くなる。人手不足の市場では、自然に賃金は高くなる。
さらに、労働生産性も賃金を決める要素の一つだ。労働者1人に対しての付加価値額を労働生産性としているが、これが向上すれば賃金は上がる。労働分配率を一定とすれば、付加価値の増加分の一部が賃金に分配されるからだ。
労働生産性は、たとえばデジタル化を進めれば、仕事の効率がよくなって、労働生産性は上がる。
このように、賃金が決まるにはいくつかの要素があり、これらの要素が満たされないかぎり、賃金が恒常的に上がることはない。それなのに、日本政府は春闘に口出しをし、市場経済を
企業によっては、首相の顔を立てて、賃上げに付き合うところもある。しかし、それは一過性であり、逆に弊害も大きい。
たとえば、ある企業が市場で決まる条件を無視して賃上げをした場合、当然ながら利潤は減り、長期的に見ると競争力を失って倒産する可能性があるからだ。
現金、預貯金を持つことは大きなリスク
それでは、ここで、スタグフレーションについて整理してみよう。不景気のなかで物価が上がるというスタグフレーションでは、次のような悪循環が起こる。
景気が悪いなかで物価が上昇する→企業の業績が悪化して給料が上がらなくなる→消費が減ってさらに景気が悪化する→現金、預貯金の価値が低下する→生活がどんどん苦しくなる
この悪循環のなかで、最悪なのは、現金、預貯金の価値が低下してしまうことだろう。給料が上がらずに物価だけが上がっていくため、同じ金額で買えるモノが減ってしまうからだ。
物価が上昇し続けるというのは、たとえば、今日1個50円で買えた卵が1カ月後には100円に値上がりしていて、50円では買えないということだ。つまり、1カ月で持っているおカネの価値は半減してしまう。
もしインフレがさらに昂こうじてハイパーインフレになり、卵が1個1,000円になったら、おカネは紙くず化する。
ハイパーインフレでなく、マイルドなインフレであっても、現金の価値は目減りする。仮にインフレ率が年3%で継続したとすると、現在1,000万円の実質価値は20年後に約554万円になってしまう。
したがって、インフレ経済においては、金利が大事なのである。年3%のインフレ時に金利が3%付けば、預貯金の価値は目減りしない。
しかし、日銀はインフレが起こっているのにもかかわらず
日本人は
インフレもそうだが、とくにスタグフレーションにおいては、現金や預貯金を持っていることは自殺行為になってしまう。
スタグフレーションの対抗策はストライキ
スタグフレーションから、資産を持たない庶民が逃れる手立てはほぼない。しかし、なにもしなければ、生活はどんどん困窮化する。物価上昇が続くかぎり、節約しても限度がある。
そこで、2022年の暮れから世界各国で大規模なストライキが起こるようになった。英国では、年末年始に地下鉄、鉄道、バス、飛行機などの交通機関がマヒするストライキが続いた。
また、医療関係者も、過去100年間の歴史のなかで最大規模のストライキを行った。看護師労働組合に属する10万人の看護師が19%の賃上げを求めたストライキは、世界中で報道された。
看護師労働組合の要求を受けて、イングランドとウェールズ政府はNHS(国民保健サービス)の下で働く職員に対して、平均4.75%、賃金を引き上げると発表した。しかし、英国のインフレ率は10%を超えているので、この程度では〝焼け石に水”に過ぎなかった。
郵便局職員、小中高教員、大学職員なども大規模なストライキを行った。そのため、英国では子どもたちが学校に行けなくなる事態が続いた。
フランスでは、年金支給年齢を62歳から64歳に引き上げる法案が発端となって、学校教員の約65%が参加するストライキが起こった。
アメリカでも大規模ストライキが続いた。
ニューヨークでは、約7,000人の看護師が、賃上げだけでなく看護師の増員を求めて3日間のストライキを行った。その結果、ニューヨーク州看護師組合は、向こう3年間で19.1%の賃上げを勝ち取った。
カリフォルニアでは、カリフォルニア大学の大学院生や講師ら4万8,000人が賃上げを求めてクリスマスストライキを行い、25%から80%の賃上げや育児休暇を勝ち取った。
このように、スタグフレーションは世界中にストライキの嵐をもたらした。ところが、日本では抗議デモすら起こらない。しかし、スタグフレーションが亢進していけば、やがて日本でも大規模なストライキが起こる可能性がある。そうなれば、これまでの政治・経済システムは地殻変動を起こすかもしれない。
1952年、神奈川県横浜市生まれ。立教大学文学部卒業後、光文社に入社。『女性自身』編集部、『カッパブックス』編集部を経て、2002年、『光文社 ペーパーバックス』を創刊し編集長を務める。2010年より、作家、ジャーナリストとして活動中。主な著書に、『出版大崩壊』(文春新書)、『資産フライト』(文春新書)、『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP研究所)、『永久属国論』(さくら舎)などがある。翻訳書には『ロシアン・ゴットファーザー』(リム出版)がある。近著に『コロナショック』、『コロナ敗戦後の世界』(MdN新書)がある。※画像をクリックするとAmazonに飛びます